安満遺跡とは? わかりやすく解説

安満遺跡

名称: 安満遺跡
ふりがな あまいせき
種別 史跡
種別2:
都道府県 大阪府
市区町村 高槻市八丁畷町
管理団体
指定年月日 1993.11.19(平成5.11.19)
指定基準 史1
特別指定年月日
追加指定年月日
解説文: 安満遺跡は、大阪府北東部一画にある三島平野東端部に位置し高槻市東部流れ桧尾川形成した扇状地立地している。
 遺跡は、昭和3年京都大学農学部摂津農場開設された際に発見されその時調査多量弥生時代土器石器出土した。これらの土器検討から、弥生文化北部九州から畿内流入したとの指摘がはじめてなされた点で、学史著名な遺跡でもある。
 その後昭和41年からこれまで50次に及ぶ発掘調査実施され、以下の諸点が明らかとなっている。まず第1は、遺跡東西1・5キロメートル南北500メートル範囲にわたる大規模な弥生時代の集落跡であること。第2は、この集落跡が、住居群、井戸などからなる居住域水田用水路などからなる生産域、方形周溝墓中心とした墓域構成されていること。第3は、安満の集落跡弥生時代通じて段階変遷たどっていること。第4は、各時期に伴う各種遺物豊富に出土していることである。
 安満の集落跡変遷概略をみると、前期では、居住域遺跡中央部寄り高台設けられ東西150メートル南北140メートル不整形環濠囲まれ部分中心となる生産域である水田は、居住域南側一段低くなった区域にあり、東西400メートル南北150メートル範囲広がっている。墓域は、居住域東方300メートルから500メートル地域営まれている。
 中期には、2段階の変遷がたどれる。前期では、居住域生産域、墓域いずれも前期と同じ場所で営まれるが、それぞれの規模大きくなる後半になると、居住域これまでの区域とその北側200メートル区域とに分かれ生産域も前代区域のほかに東方小規模な水田区が現れる墓域前代のものが放置され遺跡西部中央北部に新たに設けられるうになる。このことは、これまで1つのものであったのが、この時期2つグループ分化したものと考えることができる。なお、後期でも2つグループわかれている。
 後期になると、中期比して規模縮小する同時に大きな変化見られるうになる後期でも2段階の変遷認めることができるが、その間大きな差はない。居住域は、前期以来区域規模縮小しながら営まれるものと、その東方500メートル地点これまで墓域であった地域設けられたものがあり、北の高台にあった居住域消滅する生産域は、それぞれの居住区南側低地設けられているが、墓域についてはまだ確認できていない
 遺物は、土器石器木器大量に出土しており、日常生活用具装身具農工具、織機具、工具祭祀用具など多種多彩なものが含まれている。また、他地域からこの地に持ち込まれ遺物数多くある。
 安満遺跡は、居住域生産域、墓域有機的な配置判明し、しかも前期から後期にいたる時期的変遷明確にたどることができる点で、また豊富な出土遺跡から弥生人多彩な生活様式知りうる点で、極めて高い学術的価値有する史跡指定し、その保存図ろうとするものである
史跡名勝記念物のほかの用語一覧
史跡:  安慶名城跡  安来一里塚  安永田遺跡  安満遺跡  安田城跡  安芸国分寺跡  安部谷古墳

安満遺跡

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/18 08:24 UTC 版)

安満遺跡公園に建てられた安満遺跡の史跡看板。
安満遺跡公園に露天展示された弥生時代小区画水田遺構。奥の建物は旧京都大学大学院農学研究科附属農場本館。
安満遺跡
位置図

安満遺跡(あまいせき)は、大阪府高槻市にある弥生時代環壕集落遺跡。三島平野の東端部に位置し、高槻市東部を流れる桧尾川が形成した扇状地に立地している。1993年(平成5年)11月に国の史跡に指定された(2011年(平成23年)2月、一部追加指定)[1]安満遺跡公園として歴史公園化されている。

概要

遺跡は、1928年(昭和3年)に京都大学大学院農学研究科附属農場[2]の建設工事の際に発見された。さらに1966年(昭和41年)頃から住宅開発が始まったことをきっかけに農場北側の発掘調査が行われ、遺構が広範囲に分布していることから比較的大きい規模の集落がこの地に拓けていたことが判った。

1928年(昭和3年)の調査で多量の弥生時代の石器土器が出土し、これらの出土遺物から弥生文化が北部九州から畿内へ流入したと初めて指摘された点で学史上著名な遺跡である。周知の埋蔵文化財包蔵地範囲全体では東西1500メートル×南北600メートルに及び、当時の土地利用が明らかになっている遺跡である。

1966年(昭和41年)からこれまで、50回以上に及ぶ発掘調査が行われている。

弥生時代の「クニ」の変遷を明らかにすることが可能な大規模集落であるため、1993年(平成5年)11月に旧農場北側の東西600メートル×南北100メートルの範囲が国の史跡に指定された。また2011年(平成23年)2月には旧農場内の一部が追加指定された[1]

かつて当地に存在した京都大学大学院農学研究科附属農場の移転に伴い、その跡地を含めた一帯を高槻市が「安満遺跡公園」として整備し、本遺跡を保存・活用するとともに、防災機能を備えた大規模公園として整備する工事が進められている。2019年(平成31年)3月に公園西側が一部開園した。その後2021年(令和3年)3月には公園内全面開園された。

集落

弥生式文化 安満遺跡(2011年撮影)

三島地方で初めて米作を始めた土地であり、弥生時代前期から中期まで存続した集落とされている。住居などの建物群のまわりに壕をめぐらせる環壕集落で、集落の南側に用水路を備えた小区画水田が広がっている。また東側と西側には墓地があり、方形周溝墓が100基以上確認されている。

このあたりは湿地帯で、遺跡の北東に流れる桧尾川の洪水や氾濫に脅かされることも多かったため、一時期山麓の芝谷遺跡などの高地性の集落へと移った形跡があったとされている。

集落の変遷

発掘調査から集落は弥生時代を通じて5段階の変遷をたどっていることが確認され、大きく3段階で構成される。

前期

居住域が遺跡中央部南寄りの高台に設けられ、東西150メートル×南北140メートルの不整形な環壕で囲まれた部分が中心となる。生産域である水田は、居住域の南側の一段低くなった区域にあり、東西約400メートル×南北約150メートルの範囲に広がっている。墓域は、居住域の東方300メートルから500メートルの範囲に分布する。

中期

中期では、2段階の変遷がたどれる。

中期前半

居住域、生産域、墓域のいずれもが前期と同じ場所で営まれるが、それぞれの規模は大きくなる。

中期後半

居住域はこれまでの区域とその北側200メートルの区域とに分かれ、生産域も前半の区域のほかに東方に小規模な水田区が現れる。墓域は前半のものが放置され、遺跡の西部と中央北部に新たに設けられるようになる。このことは、これまで1つのグループのものであったのが、この時期に2つのグループに分化したものと考えることができる。また、後期でも2つのグループに分かれている。

後期

中期に比べ規模は縮小すると同時に、大きな変化が見られるようになる。後期でも2段階の変遷を認めることができるがその間に大きな差はない。居住域は、前期以来の区域に規模を縮小しながら営まれるものと、その東方500メートルの地点でこれまで墓域であった地域に設けられたものがあり、北の高台にあった居住域は消滅する。生産域は、それぞれの居住区の南側の低地に設けられているが、墓域についてはまだ確認できていない。

脚注

  1. ^ a b 高槻市 街にぎわい部 文化財課 (2024年1月9日). “公園について”. たかつき歴史Web. 2024年3月17日閲覧。
  2. ^ 京都大学大学院農学研究科附属農場 語”. 2010年1月20日閲覧。

関連項目

外部リンク

座標: 北緯34度51分23.1秒 東経135度37分51.4秒 / 北緯34.856417度 東経135.630944度 / 34.856417; 135.630944




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