多摩ニュータウンへの延伸とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 多摩ニュータウンへの延伸の意味・解説 

多摩ニュータウンへの延伸

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 02:27 UTC 版)

京王相模原線」の記事における「多摩ニュータウンへの延伸」の解説

1958年相模原市首都圏整備法で「開発区域」の指定受けたことで、同市とその周辺急速に工業地域新興住宅地変貌していった。そのなかで当時稲城町多摩町町田市八王子市相模原市城山町津久井町は、「京王帝都新路建設促進実行委員会」を結成し現在の相模原線原型になるようなルートでの新線建設京王強く働きかけた。一方で京王でも、当時多摩町開発進めていた「京王桜ケ丘住宅地」をさらに南側拡大する形で、新たな住宅地開発をするとともに、そこに新線敷設する構想があった。「第二桜ケ丘団地」と呼称されるこの住宅地開発構想は、現在の多摩ニュータウン区域にあたり後述理由により実現はしなかったものの、現在の多摩センター駅付近の「多摩ニュータウン多摩土地区画整理事業」が施行された場所で買収進んでいたとされる1963年京王は、多摩川支線延長する免許申請した。それは京王多摩川駅から多摩川渡り概ね現在の多摩ニュータウン区域東西横断して橋本駅横浜線交差したのち、津久井湖南側相模中野に至るルートだった。この年には「多摩町大規模な住宅団地」という見出しで、その後多摩ニュータウン計画組み込まれ第一次入居が行われることになる諏訪団地永山団地の開発計画報道されていた。他社京王免許申請呼応して同様のルートで、小田急電鉄喜多見駅から分岐西武鉄道多摩川線延長する形で免許申請行った。そして1965年地方からの人口流入による東京の緊急的な住宅不足に対応するため、多摩ニュータウン都市計画決定された。現在、多摩ニュータウンでは全面買収による新住宅市街地開発事業とともに従来からの地権者換地を受ける土地区画整理事業が行われているが、この時点では、全面的に新住宅市街地開発事業による開発だけが行われることになっていた。このため先述した京王新し住宅地開発構想はここで諦めざるを得ず京王高尾線建設と「めじろ台住宅地」の開発進めることになった京王小田急申請した免許は、現在の京王よみうりランド駅付近両社新線入り混じるため、この区間調整問題になった京王側が新線北側に移すにも用地問題があり、小田急側が南側に移すにも三沢川避けねばならず、起伏多くトンネル増えるという問題があった。両社調整難航していたため、運輸省両社競合しない区間のみ免許下し京王京王多摩川 - 京王稲田堤小田急喜多見 - 稲城本町について免許を受けることとなったその後小田急側が新百合ヶ丘駅新設してそこから分岐する現在の形に計画変更し新たに百合ヶ丘 - 多摩免許申請を行うと同時に得た免許営業廃止許可申請することでこの問題解決した。これにより小田急新たに申請した免許を受け、京王残り区間について免許受けた西武については、多摩川線延伸する計画中央線負担をかけるという理由免許下りなかった。 その後多摩ニュータウン計画具体化してきたことから、多摩ニュータウン側と京王小田急とで協議が行われた。多摩市内の区間について、ニュータウン側は京王小田急両社に、どちらか一方谷戸部、もう一方尾根幹線道路を通るように提案していたが、両社とも谷戸部を通るとして譲らなかった。このことからニュータウン側の担当者は、土地区画整理事業減歩率下げたいという思惑から、3本レールにしてレール幅の違う両社車両が同じ線路を走ることを提案したが、小田急担当者に「箱根鉄道みたいにチンタラ走るわけにはいかない」と笑われたという。こうして多摩市内では現在の京王線小田急線線路が並ぶ形に決まった。また当時京王は、中央線との高速運転競争繰り広げていたことに加え新宿から河口湖までの「超特急」の構想描いていたことから、相模原線ニュータウン区域内についても高規格な、カーブ最小曲率半径1000メートル以上を確保できるようにニュータウン側に要求した。これにより理論上相模原線内は160km/hで運転可能な線形となっている。同様に小田急側も在来区間よりも高規格最小曲率半径800メートル以上を要求した協議では他にも、鉄道会社側とニュータウン側との費用負担についても話し合われたが、これがなかなかまとまらなかった。 費用負担についてまとまらないまま、1968年京王新線建設始まった1971年京王多摩川駅 - 京王よみうりランド駅間が開業し合わせて線名多摩川支線から現在の相模原線となったが、京王よみうりランド駅から先の建設は進まなかった。当時新聞掲載されところによると、多摩ニュータウンからのラッシュ時輸送には、調布 - 新宿間を複々線化する必要があり、相模原線建設費用410億円にあわせ複々線化費用数百億円も掛かるとされ、京王採算が取れないとしていたためであったまた、多摩ニュータウン内では開発者以外の不動産事業制限され住宅販売益で建設費用賄うこともできないともしていた。小田急側も同じ言い分多摩線建設ストップしており、そんななかニュータウン住民バスで2km以上先の聖蹟桜ヶ丘駅に出るなどを余儀なくされていた。京王東京都対し(1)鉄道用地の無償提供 (2)高架橋りょうなどの付帯工事費の補助 (3)在来線改良事業への補助要求したが、都は「民間企業である私鉄用地無償提供する考えは無い」とした。最終的には、日本鉄道建設公団民鉄線を建設し完成後に民鉄25年元利償還する方策がとられた。いわゆるP線方式公団民鉄方式)の始まりである。これにより両線の工事再開され、まず小田急1974年6月小田急永山駅まで、続いて京王同年10月京王多摩センター駅まで開業し小田急も翌1975年小田急多摩センター駅に到達した

※この「多摩ニュータウンへの延伸」の解説は、「京王相模原線」の解説の一部です。
「多摩ニュータウンへの延伸」を含む「京王相模原線」の記事については、「京王相模原線」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「多摩ニュータウンへの延伸」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「多摩ニュータウンへの延伸」の関連用語

多摩ニュータウンへの延伸のお隣キーワード

多摩ニュータウン

多摩ニュータウン「西部地区」の開発

多摩ニュータウンの「多摩センター地区」における民間マンション建設

多摩ニュータウンの大学

多摩ニュータウンの現在

多摩ニュータウンの遺跡

多摩ニュータウンへの延伸

多摩ニュータウンを舞台にした作品など

多摩ニュータウン第9住区

多摩ニュータウン西部地区への延伸

多摩ニュータウン通り比較的走行車線の幅は広い。後述の南多摩尾根幹線を含めた正式名称は東京都道158号小山乞田線。西は町田街道に接する町田市小山町の多摩ニュータウン入口交差点を起点に、東は鎌倉街道に接続する多摩市乞田の乞田新大橋交差点までの区間。乞田新大橋交差点以東はそのまま鎌倉街道に直進し、多摩南北道路3号線の一部として府中市・国分寺市方面まで延びている。中央分離帯がある全線片側2車線で文字通り背骨になる幹線道路として多摩ニュータウンを東西に結ぶ大動脈。旧谷戸部筋を通し丘陵地を貫いているため途中2箇所にトンネル区間がある。大型貨物車の通行も多くバスも走行する上、道路沿いに店舗が多い事、交差する鎌倉街道など他の幹線道路とは平面で交差しており、信号の間隔も短いため乞田新大橋交差点など渋滞が発生する事も多いが、すいている時間帯は車両の走行速度は高く、夜間の交通量はかなり少ない為に閑静な佇まいも見せる。野猿街道

多摩ニュータウン開発

多摩ニュータウン開発と三沢川分水路の建設

検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



多摩ニュータウンへの延伸のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの京王相模原線 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS