多摩ニュータウン「西部地区」の開発
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「南大沢駅」の記事における「多摩ニュータウン「西部地区」の開発」の解説
南大沢駅周辺は、多摩ニュータウン西部地区の中心として開発され、「西部地区センター」に位置づけられている。 東京都施行の新住宅市街地開発事業である「西部地区」では、1965年12月から山林部分の用地買収が行われ、1971年7月には当時の建設大臣から新住宅市街地開発事業の事業許可を得て、同年11月から集落部分の土地買収に着手した。その際に、谷戸部分もできるだけ事業区域に含んで計画されることになったが、強制買収を可能とする新住宅市街地開発事業といえども相当数の家屋を有する状態となっていて、このために、既存住民の移住先となる大量の「優先分譲地」を確保する計画となった。これを受け、まずは1971年頃から、工事用道路の整備に加えて優先分譲地の先行整備が始められた。そして、大方の家屋移転が完了した後の1978年度から、本格的な土地造成に着手することとなった。 東京都と八王子市の協議では「多摩ニュータウン西部地区開発大綱」がまとめられ、これに沿って開発が進められた。その中で南大沢駅前には「西部地区センター」として20ヘクタール程度の土地が確保されることとなり、「商業業務施設や、その他公益的施設を整備する」ことが位置づけられた。そしてその中で京王相模原線は多摩センター駅から南大沢駅まで単に延ばすのではなく、一挙に横浜線の橋本駅まで延ばすという考え方も示された。 また同時に埋蔵文化財の調査では、勝手に発掘範囲が拡大されていたり、二重三重の発掘が始まって予想以上に時間がかかるなどし、土地造成に大きな支障がでる事態がいくつも発生していたことから、事前に遺跡の存在範囲を正確に確認するべく「基礎調査」が1976年から3か年にわたって行われた。結果、多摩ニュータウン全体で遺跡数883ヶ所、遺跡面積357ヘクタール、西部地区だけでも297ヶ所、100ヘクタールもの大量の遺跡が見つかり、いずれにしろ開発スケジュールの大幅なスローダウンは避けられないとして、新たに発見された遺跡のうち、重要そうで時間のかかりそうな所は土地利用変更で対処が行われることとなった。1977年から1978年の前半にかけて土地利用変更し、半年余りで建設大臣に「施行計画届出」が行われた。 こういったイレギュラーな形の施行計画届出がされ、1983年3月には、小学校と中学校そして中層住宅1,018戸で西部地区の最初の入居が第14住区で果たされることになった。しかし道路は未完成で、住宅建設と道路建設が同時期になってしまい、現場では「今日はどこの道路を通って行けばいいんだよ」というやり取りが行われていた。鉄道も多摩センター駅までしか開通しておらず、多摩ニュータウン通りから多摩センター駅に向かうバスサービスで対応されていたが、その多摩ニュータウン通りも土地区画整理事業の遅れで一部が完成しておらず、片側だけでやっと通行できる状況だった。 東京都立大学 (1949-2011)(現:東京都立大学(首都大学東京から名称変更))は当初、立川市への移転が予定されていたが、立川の用地が手狭で大学内で問題となっていたことから多摩ニュータウンに移転することになった。この移転のため、西部地区の計画はさらなる見直しがされ、第20住区の「松木・日向緑地」を含めた約42ヘクタールの土地に用地が確保された。これに伴って住宅用地が減少するため、全体的に高層住宅の比率を上げることで、全体の住宅戸数を減らさない対応がなされた。さらに第16住区には「誘致業務施設用地を設定する」とされ、「東京都の中の福祉局や教育庁から要請があった老人福祉施設や身障者福祉施設や養護学校を配置する」ことが決定した。しかし八王子市側は大学誘致を全く歓迎しておらず、東京都は八王子市との交渉に難航する。最終的に八王子市からは市内にある富士森公園級の公園を市内にもう2か所作るという交換条件が出され、東京都側はしぶしぶ呑むこととなった。 それから南大沢駅前の「西部地区センター」も見直しがされ、近隣公園をセンターエリアの南端に配置し、東京都立大学 (1949-2011)まで抜ける歩行者専用の「南北軸」を形成するという位置づけとなった。南大沢駅の南側には、商業施設や八王子市管理の公益施設を入れること、東京都立大学の手前には、大学関連の施設を入れるとともに住宅を乗せるといったことも計画された。1984年の最終的な見直しでは、京王相模原線と多摩ニュータウン通りを跨ぐ巨大な「南北ペデストリアンデッキ」に駅改札口が面するようにし、南端には駅前広場も設け、そのバス乗降場には雨除けのキャノピーを設けることとされた。そしてようやく1987年5月に京王相模原線「南大沢駅」が開設された。 1991年に東京都立大学 (1949-2011)南大沢キャンパスが開設され、1992年には「そごう」のジュニアデパートと、スーパーの「忠実屋」がキーテナントの南大沢駅前で最初の商業ビル「ガリレア・ユギ」が開業した(現在のイトーヨーカドー)。また八王子市が1996年4月に「フレスコ南大沢」という土地信託ビルを建設し、そこには八王子市の文化施設が併設されている。2000年9月には定期借地方式により三井不動産が、「ラ・フェット多摩」(現:三井アウトレットパーク多摩南大沢)を開業し、街の賑わいを創出している。 第15住区の建設においては、公団施行区域にて多摩センター駅周辺と一体で整備された落合・鶴牧地区で優れた景観計画が行われていたことから、それに触発される形で東京都側でも綿密な景観計画が実践されることになった。東京都と八王子市だけでなく、公団が大いに協力して進められることになり、これらで「15住区住宅企画会議」が組織され、その会議の場で景観計画上の調整を行うことが決められ、その下に実働部隊となる「景観等調整会議」を作ってスタートされた。その中心となる計画を担う専門家を1人置き、マスタープランの作成と全体の調整を行いながら実現を図っていったのが、のちに数々の賞を獲得する「ベルコリーヌ南大沢」となった。この住区の景観計画は、第20住区、21住区、16住区でも統一して実施され、相互に歩行者専用道路(遊歩道)がネットワークされて、車道を一切横断することなく各住区から駅前までの移動を可能にしている。
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