多摩ニュータウン「西部地区」の開発とは? わかりやすく解説

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多摩ニュータウン「西部地区」の開発

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 15:09 UTC 版)

南大沢駅」の記事における「多摩ニュータウン「西部地区」の開発」の解説

南大沢駅周辺は、多摩ニュータウン西部地区中心として開発され、「西部地区センター」に位置づけられている。 東京都施行新住宅市街地開発事業である「西部地区」では、1965年12月から山林部分用地買収が行われ、1971年7月には当時建設大臣から新住宅市街地開発事業事業許可得て同年11月から集落部分土地買収着手したその際に、谷戸部分できるだけ事業区域含んで計画されることになったが、強制買収を可能とする新住宅市街地開発事業といえども相当数家屋有する態となっていて、このために、既存住民移住先となる大量の「優先分譲地」を確保する計画となった。これを受け、まずは1971年頃から、工事道路整備加えて優先分譲地先行整備始められた。そして、大方の家屋移転完了した後の1978年度から、本格的な土地造成着手することとなった東京都八王子市協議では「多摩ニュータウン西部地区開発大綱」がまとめられ、これに沿って開発進められた。その中で南大沢駅前には「西部地区センター」として20ヘクタール程度土地確保されることとなり、「商業業務施設や、その他公益的施設整備する」ことが位置づけられた。そしてその中で京王相模原線多摩センター駅から南大沢駅まで単に延ばすのではなく一挙に横浜線橋本駅まで延ばすという考え方示された。 また同時に埋蔵文化財調査では、勝手に発掘範囲拡大されていたり、二重三重発掘始まって予想以上に時間がかかるなどし、土地造成大きな支障がでる事態いくつも発生していたことから、事前に遺跡存在範囲正確に確認するべく「基礎調査」が1976年から3か年わたって行われた結果多摩ニュータウン全体遺跡数883ヶ所、遺跡面積357ヘクタール西部地区だけでも297ヶ所、100ヘクタールもの大量遺跡が見つかり、いずれにしろ開発スケジュール大幅なスローダウン避けられないとして、新たに発見され遺跡のうち、重要そうで時間のかかりそうな所は土地利用変更対処が行われることとなった1977年から1978年前半にかけて土地利用変更し半年余り建設大臣に「施行計画届出が行われた。 こういったイレギュラーな形の施行計画届出がされ、1983年3月には、小学校と中学校そして中層住宅1,018戸で西部地区最初入居第14住区果たされることになった。しかし道路未完成で、住宅建設道路建設同時期になってしまい、現場では「今日はどこの道路を通って行けばいいんだよ」というやり取りが行われていた。鉄道多摩センター駅までしか開通しておらず、多摩ニュータウン通りから多摩センター駅に向かうバスサービスで対応されていたが、その多摩ニュータウン通り土地区画整理事業の遅れで一部完成しておらず、片側だけでやっと通行できる状況だった。 東京都立大学 (1949-2011)(現:東京都立大学首都大学東京から名称変更))は当初立川市への移転予定されていたが、立川用地手狭大学内で問題となっていたことから多摩ニュータウン移転することになった。この移転のため、西部地区計画さらなる見直しがされ、第20住区の「松木・日向緑地」を含めた42ヘクタール土地用地確保された。これに伴って住宅用地減少するため、全体的に高層住宅比率上げることで、全体住宅戸数減らさない対応がなされた。さらに第16住区には「誘致業務施設用地設定する」とされ、「東京都の中の福祉局や教育庁から要請があった老人福祉施設身障者福祉施設養護学校配置する」ことが決定した。しかし八王子市側は大学誘致を全く歓迎しておらず、東京都八王子市との交渉難航する最終的に八王子市からは市内にある富士森公園級の公園市内にもう2か所作るという交換条件出され東京都側しぶしぶ呑むこととなった。 それから南大沢駅前の「西部地区センター」も見直しがされ、近隣公園センターエリア南端配置し東京都立大学 (1949-2011)まで抜け歩行者専用の「南北軸」を形成するという位置づけとなった南大沢駅南側には、商業施設八王子市管理公益施設入れること、東京都立大学の手前には、大学関連の施設入れとともに住宅乗せるといったことも計画された。1984年最終的な見直しでは、京王相模原線多摩ニュータウン通りを跨ぐ巨大な南北ペデストリアンデッキ」に駅改札口面するようにし、南端には駅前広場設け、そのバス乗降場には雨除けキャノピー設けこととされた。そしてようやく1987年5月京王相模原線南大沢駅」が開設された。 1991年東京都立大学 (1949-2011)南大沢キャンパス開設され1992年には「そごう」のジュニアデパートと、スーパーの「忠実屋」がキーテナント南大沢駅前で最初商業ビル「ガリレア・ユギ」が開業した現在のイトーヨーカドー)。また八王子市1996年4月に「フレスコ南大沢」という土地信託ビル建設し、そこには八王子市文化施設併設されている。2000年9月には定期借地方式により三井不動産が、「ラ・フェット多摩」(現:三井アウトレットパーク多摩南大沢)を開業し、街の賑わい創出している。 第15住区の建設においては公団施行区域にて多摩センター駅周辺と一体で整備され落合鶴牧地区優れた景観計画が行われていたことから、それに触発される形で東京都側でも綿密な景観計画実践されることになった東京都八王子市だけでなく、公団大い協力して進められることになり、これらで「15住区住宅企画会議」が組織され、その会議の場で景観計画上の調整を行うことが決められ、その下に実働部隊となる「景観調整会議」を作ってスタートされた。その中心となる計画を担う専門家1人置き、マスタープラン作成全体調整行いながら実現図っていったのが、のちに数々の賞を獲得する「ベルコリーヌ南大沢となった。この住区の景観計画は、第20住区、21住区、16住区でも統一して実施され相互に歩行者専用道路遊歩道)がネットワークされて、車道一切横断することなく各住区から駅前までの移動可能にしている。

※この「多摩ニュータウン「西部地区」の開発」の解説は、「南大沢駅」の解説の一部です。
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