場面・基礎史料
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「絹本著色後醍醐天皇御像」の記事における「場面・基礎史料」の解説
本作品を所蔵する時宗総本山清浄光寺には、『十二代尊観上人系図』という史料があり、そのうち3篇に本作品の来歴が記録されている。『清浄光寺記録』等と呼ばれることもあり、3篇の文書が別々であるかのように言及されることもあるが、実際は同一文書の中の3つの項である。2014年、遊行寺宝物館館長の遠山元浩の論文によって初めて系図全編の写真公開と翻刻が為された。 『十二代尊観上人系図』のうち「瑜祇御灌頂之事」には、内容について、以下のように記録されている(読点は内田啓一による) 元徳二年庚午十月廿六日、於御節所殿被奉授之、〈御年/四十三〉、御装束ハ仲哀天皇御宸服、神武天皇御冠、同着御之御袈裟者、龍猛菩薩自被開南天鐡塔已来、三国相承之乾陀穀子之袈裟也、于今東寺在之 —『清浄光寺記録』「瑜祇御灌頂之事」 また、関連資料として、文観高弟の宝蓮が著した『瑜伽伝灯鈔』(正平20年/貞治4年(1365年))には、次のような記録がある(読点は本記事による)。 元徳二年十月廿六日、於御節所殿、奉授瑜祇灌頂主上申、神武天皇御冠、仲哀天皇雷服着御之、僧正東寺相承袈裟着用之 —宝蓮、『瑜伽伝灯鈔』 総合すると、元徳2年(1330年)10月26日、宮中の御節所殿という場所で、文観が後醍醐天皇に瑜祇灌頂(ゆぎかんじょう)という灌頂を授けた時の図を描いたものである。ただ、黒田日出男 によれば、眉が垂れ下がっているなど、老齢の特徴が見られることから、絵そのものは、設定上の43歳ではなく、崩御時の52歳の姿を写したものではないか、という。 御節所殿という場所は未詳だが、内田啓一は、内裏の後宮七殿の一つ常寧殿のことではないかとしている。常寧殿では五節舞が行われたため、別称を五節殿または五節所というからである。 瑜祇灌頂とは、主に『瑜祇経』上下巻のうちの上巻序品を基礎とする灌頂である。結縁灌頂(けちえんかんじょう、特定の仏と縁を結ぶ儀式)と伝法灌頂(でんぼうかんじょう、師の教えを継ぎ弟子を取る資格を得る儀式)を終え、相当の修学と修行を経たのち、最秘の経典によって行われる「究極の灌頂」「密教の最高到達点」であり、これより上は即身成仏しかない。 瑜祇灌頂の具体的な手順は神奈川県横浜市称名寺本『瑜祇灌頂私記』に詳しいが、相当な知識量と複雑な手続きが必要な儀式であり、内田は、後醍醐天皇がどれほど密教に習熟していたかが伺えるとしている。 儀式を受ける者はまず、覆面して投花(とうげ)を行う。次に『瑜祇経』が説く三十七尊の「三昧耶形」(さんまやぎょう)と二十二種の「種子」(しゅじ)を、特定の手順で「観想」する。三昧耶形とは、密教の崇拝対象を、金剛杵(こんごうしょ、図像で後醍醐が握っている道具)などの祭器の形で表したシンボルのことである。種子とは、崇拝対象を梵字(悉曇文字)で表したシンボルである。観想とは、これらのシンボルを心の中で描く儀式である。したがって、儀式に臨むには密教を熟知している必要がある。この儀式を成功させることで、師から印明(いんみょう、手指と言葉による真理のシンボル)を授かることができる。 中世は瑜祇灌頂が比較的多く行われた時代であるが、それでも選ばれた者にしか授けられない灌頂だった。後醍醐天皇は既に伝法灌頂(阿闍梨(あじゃり)の地位、つまり独自の弟子を取ることが可能な地位になる灌頂)という高い灌頂を受けているが、瑜祇灌頂にはそれ以上の価値があったと思われる。世俗身分で治天の君の地位にある後醍醐天皇が授かったというのは、例外的な事例である。ただ、例外的ではあるものの、後醍醐は道順・栄海・性円らから灌頂を受け、文観からは印可・仁王経秘宝・両部伝法灌頂といったものまで授けられているので、熟練の僧侶と同格の修行はこなしてきている。したがって、正しい段階は踏んでいるため、流れとしては自然であるという。 なお、愛妻家だった後醍醐は、同年11月23日、正妃である中宮の西園寺禧子にも同じ儀式を受けさせている(『瑜伽伝灯鈔』)。
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