地方の太子信仰
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鎌倉時代以降に庶民層に太子信仰が広まると、地方で土着の風習と結びつく例が見られるようになる。それらには初期真宗教団や高野聖・善光寺聖などの影響が見られるが、特に親鸞による東国布教の影響は少なくなく、室町時代に東国に浄土宗を広めた聖冏は親鸞門徒が太子像を本尊としていることを批判している。こうした影響から20世紀に至っても福島県や岩手県では太子像が多く残されている。 福島県に太子像が多く残されていることには、太子守宗の影響があったと考えられる。太子守宗は旧会津領内の山村に中世から江戸時代初期まで存在し、教団・組織化はされなかったものの記録に残されるものだけで27ヵ寺を数えた。その多くは保科正之の寺社整理により破却、もしくは本末制度により真宗高田派に改宗して消滅している。太子守宗の教義は明らかではないが、残されている太子守宗時代の本尊や「常陸国での念仏弾圧を避けて移住した」という伝承などから初期真宗の影響が強く、そこに祈祷的要素を合わせた土着の宗派であったと考えらている。 同じように近世の本末制度により消滅した浄土真宗系宗派が、新潟県の岩舟地方にもある。この地域には中世末から近世にかけて「法印さま」と呼ばれる修験者を開基として創建された曹洞宗寺院が多いが、古い寺院には阿弥陀如来を祀る寺が少なくない。この地方の修験者は中世には鉱山採掘を掌握しており、こうした修験者を通じて浄土信仰が金堀り・杣工・鋳物師・檜物師・木地師などの山の民に広まっていた。そうした修験者が開いた寺院が近世に曹洞宗に改宗し、改宗後も元々の本尊であった阿弥陀如来をそのまま祀っていると考えられる。こうした信仰を残す人々に田畑を持たない卑賤視された住民で、上流で伐採された木材を筏にして川で下流に運搬する「タイシ」や、下流で河川水運業を営む「ワタリ」と呼ばれる人々がいる。かれらの間には太子堂で行われる「ダシ講」と呼ばれる太子講が残存している。また、河川水運業による浄土信仰は、この地方に限らず紀州の紀の川流域など全国で見ることができ、初期真宗の教義が「ワタリ」の生業である水運によって全国に広まっていったと推測されている。 岩手県に太子像が多く残存するのは、この地域に特徴的な民間信仰「まいりの仏」の影響と考えられる。まいりの仏とは旧暦10月に行われ、阿弥陀如来像や太子像などを祀る民家や民間のお堂に同族縁者が集まって念仏や正信偈を唱える信仰である。祀られるまいりの仏は阿弥陀如来像や各号が多いが、全体の1/4程度が太子像で、その中では孝養像・黒駒太子・連坐御影の仏画が多く、木像もみられる。まいりの仏信仰は県全域に渡っており、昭和49年に司東真雄が行った調査では、まいりの仏の所有者が300戸以上確認された。特に中南部の紫波稗貫・和賀・江刺の密度が濃く、次いで遠野から気仙にかけて見られる。なぜ阿弥陀像・太子像が民間に伝わるのか定かではないが、「寺院が無かった時代には死人が出れば枕元に仏画を掛け、主人が導師となって念仏を唱えて往生させた後に野辺送りをした」と伝わっており、司東は「念仏僧が、地域の一族の長に一族の共有財産として各号と、葬式の司祭権を与え、14世紀ごろに阿弥陀像や太子像も加わり今日まで残存した」と推測している。 同じように、太子像が葬式に用いられる風習が、長野県秋山郷に残されている。この地域には代々「如来さま」と呼ばれる旧家があり、その屋敷には「聖徳太子堂」もしくは「太子堂」と呼ばれる草堂がある。この草堂の縁日には釈迦涅槃図が祀られるが、一方で「聖徳太子如来」の尊号も伝わっており、両者が混同されていた可能性もある。この旧家には7幅の太子像が伝来していたようだが、昭和61年時点で2幅が現存している。この太子像は正月15日と盆15日に太子堂で御開帳されるほか、「如来さま」が地域の葬式に招かれて、死者の頭上で箱に入った太子像を「イダカセル」(頭をなでるように動かす)そして『般若心経』を唱える民間信仰に使用される。この民間信仰に用いられる太子像には黒駒太子があり、善光寺聖による太子信仰が土着風習と融合したものと考えられる。 加賀国では、真宗大谷派寺院を中心に太子信仰が広がっているが、一部地域では「火伏せの霊験」「海の時化に遭わない」などの現世利益や、太子像が「雨が降ってきたので洗濯物を取り込んだ」「若者たちと踊った」などの俗っぽい伝承を伴っている例が見られる。
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