地方の党員・総選挙
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「ポール・ニザン」の記事における「地方の党員・総選挙」の解説
1929年に哲学の大学教授資格を取得した後、兵役に服し、1931年に哲学教員としてアン県ブール=カン=ブレス(オーヴェルニュ=ローヌ=アルプ地域圏)のリセ・ラランド(フランス語版)に赴任した。彼はここでも労働総同盟左派の統一労働総同盟(フランス語版)への加入を勧めるなど、共産党員として積極的に活動し、地元の新聞・雑誌で保守派に「ブール(=カン=ブレス)の共産党指導者」、「赤い救世主」などと揶揄された。 1932年の総選挙(Élections législatives françaises de 1932)では、ブールの共産党候補として出馬し、第一回投票で約3%の得票、第二回(最終)投票では1%にも満たなかった。こうした背景には共産党がコミンテルンの指令による「階級対階級」戦術を採用したこと、すなわち、第一回投票で社会党候補が優位に立った場合、左派を当選させるために共産党候補が辞退するという従来の戦略を放棄したことがあり、この結果、共産党は大敗を喫し、急進党と社会党(SFIO)の左派連合が勝利し、議席数では急進党が第一党となった。
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