親鸞による東国布教
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 23:14 UTC 版)
「西念寺 (笠間市)」の記事における「親鸞による東国布教」の解説
建永2年2月28日(1207年3月28日)、法然の吉水教団門下の親鸞は承元の法難により流罪となり、越後国国府に配流される。建暦元年(1211年)11月に赦免の宣旨が下る。赦免後も2年半ほど越後に留まる。建保2年(1214年)に常陸国稲田の領主であった稲田九郎頼重の招きに応じて「吹雪谷」と呼ばれたこの地に草庵を結び、「稲田の草庵」と呼ばれる。62、3歳頃に、帰京する。東国における布教は、約20年間に渡る。門弟たちの住所が、この草庵を中心とした30kmの同心円内にほぼ収まるため、稲田の地を拠点とし布教したと考えられる。親鸞にまつわる伝承が残される地域の範囲からも、常陸・下総・下野の三ヶ国を中心に、広く関東から東北まで布教を行ったと考えられる。
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