地方の実質的独立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/05 10:03 UTC 版)
「ムハンマド・シャー (ムガル皇帝)」の記事における「地方の実質的独立」の解説
こうして、1720年代にムガル帝国では、ハイダラーバードやアワド、ベンガルの諸州が帝国を見限り、独立を宣言することとなる。 1723年10月、宰相カマルッディーン・ハーンがその職を辞して、デカンのハイダラーバードに下降して実質的に独立し、翌1724年にニザーム王国を樹立した。ムガル帝国はこの行動に対して軍を派遣したが、シャカル・ケーダーの戦いで打ち破られたため、この独立を認めなければならず、ムハンマド・シャーはデカン総督の位と「アーサフ・ジャー」の称号を与えて独立を認めた。この宰相の独立をある歴史家はこう記している。 「 「彼の出立は、帝国からの忠誠と美徳の遁走を象徴した」 」 同年には、アワド太守サアーダト・アリー・ハーンもファイザーバードを拠点に、アワド地方で実質的に独立した。彼はムガル帝国に仕えたイラン系貴族の一人で、「ブルハーヌル・ムルク」の称号を持ち、1722年にアワド太守に任命された人物だった。 ベンガル地方では、ベンガル太守ムルシド・クリー・ハーンの統治のもと半独立的立場が保たれていたが、税収を中央政府に律儀に払っていた。だが、1727年にムルシド・クリー・ハーンが死ぬと、新太守シュジャー・ハーン彼は帝国に対して税の納入を拒否し、半独立的立場だったベンガルも実質的に帝国の支配から独立した。 これらの地方の実質的独立にムガル帝国はなす術が無く、ムガル帝国から次々と重要な州が離れたことで帝国の領土と歳入は大きく削減され、事実上ムガル帝国の解体を意味した。これにより、帝国は各地の独立政権が名目上の皇帝として仰ぐ単なる名目的主権国家となった。
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