図像の読解
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/30 23:33 UTC 版)
既に述べたように、那智参詣曼荼羅は絵解きされることを前提とする絵画である。曼荼羅というものは本来、漠然と鑑賞するものではなく、曼荼羅の内部に描かれた一つ一つの図像が帯びるコードを図像学的に読解するべき性質を持っている。那智参詣曼荼羅の絵解きは、そのコードを説き明かす行為であり、絵解きによる語りを伴って十全に読解が補完されたと考えられている。
※この「図像の読解」の解説は、「那智参詣曼荼羅」の解説の一部です。
「図像の読解」を含む「那智参詣曼荼羅」の記事については、「那智参詣曼荼羅」の概要を参照ください。
図像の読解
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/05/05 18:34 UTC 版)
紀三井寺参詣曼荼羅は、かつて紀三井寺境内の子院のひとつで、穀屋であった穀屋寺が所蔵する作例1点が伝来する。かつて比丘尼寺であった穀屋寺には熊野観心十界曼荼羅も伝来することから、熊野三山の本願との関係も想定されている。 霊場において中心に描かれるのは、本尊たる十一面観世音菩薩を祀る本堂観音堂である。観音堂は8本の桜に囲まれて描かれているが、桜は聖俗の空間を分節化する象徴的な記号として参詣曼荼羅にしばしば描かれている植物である。『紀伊続風土記』には紀三井寺境内の多くの子院の名が記されているが、画面中にはそれらの姿は描かれず、作成主体による要否の選択によるものである。本堂左に唯一つだけ描かれる子院らしき坊舎は、『紀伊続風土記』の記述などから穀屋坊(のちの穀屋寺)である。穀屋寺は歴史的には尼寺であったが、画面中の坊舎には比丘尼の姿は見えず、拝殿と思しき建物の前を、小比丘尼に引き連れられて行く女性の集団が見られるのみである。
※この「図像の読解」の解説は、「紀三井寺参詣曼荼羅」の解説の一部です。
「図像の読解」を含む「紀三井寺参詣曼荼羅」の記事については、「紀三井寺参詣曼荼羅」の概要を参照ください。
図像の読解
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/28 09:21 UTC 版)
清水寺参詣曼荼羅の図像は五条橋から清水坂を経て門前に至る参詣道と霊場(寺内)の2つに分かれている。実際にはほとんど一直線に近い道が著しく縮小・変形させて描写されているのに対し、霊場の風景ははるかに大きく、細密・正確に描かれており、通絵図的に参詣曼荼羅に認められる原則にしたがって、清水寺参詣の信仰世界が描かれている。一方、霊場が完結した小宇宙であることを示す象徴として日輪・月輪の描写が参詣曼荼羅には通例であるが、清水寺本にはその描写が欠けている。清水寺本の上部は山稜に沿って切り取られた形跡があり、日月の描写が本来は存在したと推測されている。
※この「図像の読解」の解説は、「清水寺参詣曼荼羅」の解説の一部です。
「図像の読解」を含む「清水寺参詣曼荼羅」の記事については、「清水寺参詣曼荼羅」の概要を参照ください。
図像の読解
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/28 01:49 UTC 版)
成相寺は、天橋立を見下ろす成相山中腹の景勝地にあり、西国三十三所第28番札所である。室町時代中期には与謝・丹波の両郡にわたって合計60町もの寺領をそなえ、いくつもの子院を従えた有力な一山寺院であった。しかし、応仁の乱とそれに引き続く抗争の中で戦火に見舞われ、後に一色氏によって一度は再建されるものの、天文14年(1545年)の焼損後の再建は難航し、永禄年間(1558年~1570年)・慶長年間(1596年~1615年)の2度の再興により再建を果たしたと伝えられている。 画面は大きく上下2つの部分に分かれ、成相寺の寺内を描いた上部と近隣の名所・寺社を描いた下部とが、中央部の山地や雲霞によって隔てられている。天空には左に銀箔の月輪、右に金箔の日輪が、寺内最上部には本堂が配され、仁王門(総門)から本堂に至る経路を中心としてその左右に、寺内の事物や人物が配されている。仁王門を入って左側には顕著な2つの堂舎が描かれている。仁王門入ってすぐ左に築地塀に囲まれているのは本坊惣持院と考えられ、その奥の画面左端にある建物はその規模からして寺の要人の住居と見られる。寺内をさらに上部に進むと「礼堂」と貼紙で注記された、舞台のような形状の建物に着く。本願寺僧覚如は、貞和4年(1348年)の成相寺参詣の折に「舞台の様なる所」に詠歌を書き付けたとしており、この礼堂のことであろう。本堂左手には五重塔のほか、八幡宮(拝殿・本殿)、熊野権現(鳥居・拝殿・本殿)が配され、熊野権現の本殿には3つの懸仏が掛けられている。画面の最上層部には櫓のある建物が描かれており、成相寺伝の『成相寺旧記』には天正年間(1573年~1593年)の頃まで一色氏の居城が「阿弥陀が峯」と称される場所にあったと記されることから、一色氏の城とみられる。 画面下部には近隣の名所・寺社が鳥瞰的に一望される。画面下縁に沿って栗田半島が描かれ、天橋立と智恩寺、真名井社、籠神社、府中の町並みや阿蘇海での漁労風景が描かれ、上部には成相寺に至る参詣道が描かれている。実際には南南西に伸びる天橋立は西に折り曲げられ、その結果阿蘇海が狭められて表現されているほか、参詣道の道程は圧縮されて表現されているといったデフォルメが目を引く。こうした描写技法は、聖域を大きく細密に描く一方で、参詣道は位置関係を曲げたりくずしたりして圧縮し、両者を雲霞によってつなぐという、参詣曼荼羅において通例である技法にしたがったものである。 画面中央部の参詣道上には木曳きの光景が描かれている。木曳きの光景は那智参詣曼荼羅諸本や長命寺参詣曼荼羅にも見られるもので、一山の造営・修造の担い手であった本願にとって重要な意味を持った図像であって、その意味で寺社の造営・修造との関連を示すものと推測される。参詣曼荼羅において寺社は、あるべき不変かつ理想の姿で描かれるが、本図の場合も再興後の理想的なあるべき姿を描いたものと位置づけられる。
※この「図像の読解」の解説は、「成相寺参詣曼荼羅」の解説の一部です。
「図像の読解」を含む「成相寺参詣曼荼羅」の記事については、「成相寺参詣曼荼羅」の概要を参照ください。
- 図像の読解のページへのリンク