困難を極めた建設
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/11 08:50 UTC 版)
「日立鉱山の大煙突」の記事における「困難を極めた建設」の解説
大煙突の建設が農商務省から認可されると、さっそく建設工事が始まった。工事は基礎部分の建設から始められた。建設予定地点の岩盤まで直径約25.9メートル、深さは約4メートル地面を掘り下げ、鉄筋を組んだ上でコンクリートを打ち込んだ。基礎部分の鉄筋に使用した丸鋼は145トン、使用したコンクリートは約3,500トンであった。当時まだ大規模な鉄筋コンクリート建築が行われていない時代であったため、基礎工事からしてその規模の大きさは工事従事者たちを驚かせた。 基礎が完成した後、いよいよ煙突本体の工事が始まった。まずは高い建造物を建設するために必要な足場を組むことから始まった。足場に使用した丸太は平均長4間(約7.27メートル)のものが約30,000本、丸太を組むのに当初は縄や針金を使用したが、強度不足のためシュロ縄に変えられたという。シュロ縄は全部で54,000把使用され、本体工事終了後に足場が解体されて運び出されたシュロ縄屑は合計60トンに達したという。当時の足場は鉄骨ではなく丸太で作られたこともあって大煙突の足場は巨大なものとなった。 足場は全体として八角形に組まれ、足場内部には幅約60センチの螺旋階段が設けられ、作業員がすれ違うことができるように1坪程度の避難所が数カ所設けられた。なにせ150メートルを越える大煙突の建設であり、このような高所まで足場を組む技術を備えた鳶職は日立には居なかった。大煙突の足場を組んだ鳶職は一部は東京あたりからやってきたとも伝えられているが、主に九州からやってきたと言われている。20名近くの鳶職は高い技術で大煙突の足場を作っていったが、足場建設もさることながら工事完成後の足場解体が難しかったとのエピソードが残っている。 足場の中ではまず約10名の鉄筋工がアメリカから輸入されたジョンソンバーを針金で結束していき、続いてコンクリートが打ち込まれていった。国道6号線の宮田川にかかる日立橋周辺に当時あった広い川原に、コンクリート材料を練る作業場が設けられ、そこでセメント、砂、骨材である砂利が混ぜられた上で人力で大煙突の作業現場まで運ばれた。運搬作業員たちは材料が混合されたコンクリートが約2貫(約7.5キログラム)入った背負い箱を背負い、大煙突の建設現場まで運んだのである。大煙突のコンクリート打ちの工事現場には水が上げられるようになっていたと考えられ、運搬作業員たちが運んだコンクリート材料を水で練った上でコンクリート打ちの作業が行われていった。宮田川の川原に設けられた作業所から人力でコンクリート材料を、標高328メートルに建設する150メートルを越える高さとなる大煙突の工事現場まで人力で運ぶため、運搬作業は午前7時には開始され、約300名の運搬作業員が1日2回、運んだと伝えられており、文字通り人海戦術であった。大煙突の工事が始まった頃はまだしも、工事が進むにつれて煙突はどんどんと高くなっていく。足場内部に設けられた幅約60センチの階段は簡単なつくりのものであり、足場が高くなっていくと大きな幕を張って高さを感じさせないよう工夫がなされたものの、ぐらぐらと揺れ、風が吹くともう恐怖であったという。何とか現場まで到着してコンクリート材料を運び終えた後が、荷が軽くなって一番危険であると作業員同士お互い励まし合い、日立鉱山の監督者などからも危険を避けるためかよく怒鳴られていたという。 前述のように大煙突の設計、施工の最高責任者は宮長平作であったが、事実上の現場の最高責任者は尾崎武洋であった。尾崎は現場監督として日夜建設労働者たちと文字通り寝食をともにし、また高所での工事も現場で監督し、完成した155.75メートルの大煙突頂上の作業場で昼寝をしたとも伝えられている。そして尾崎の他に岸本啓三が現場で指揮、監督を行ったとされている。 大煙突建設に従事した労働者数は、日立鉱山史によれば男性32,389名、女性4,451名の計36,840人に及んだ。多くの労働者は東北地方から募集に応じて日立までやってきた。工事現場の日当が当時は通常18銭から20銭であったというが、大煙突建設工事の場合、倍以上の45銭であり、日当の良さのため労働者はすぐに集まり、現場での生活環境も東北などより好条件であったこともあって、勤務状況も良好であったという。また高所で足場を組む鳶職には驚くほどの高賃金を支払ったと言われている。 また大煙突建設に必要な物資の輸送については、前述のようにコンクリートは文字通り人海戦術で運搬したとされているが、重量がある鉄筋や足場用の丸太などの物資の輸送についてどのようにして行ったのかがはっきりとしていない。当時、日立鉱山の物資輸送に索道が利用されていたため、大煙突の建設用に索道が建設されたのではないかとの推測がある。大煙突建設用の資材は前述のように現在の国道6号線日立橋付近と、あとは精錬所がある大雄院に集められたと言われており、そのうち大雄院に集められた物資の大煙突工事現場までの輸送には索道が使用されたのではとも言われている。しかし大煙突建設関係の資料や当時撮影された写真からは索道があったという証拠は見つかっていない。 大煙突建設における死者は2名とも3名とも言われているがはっきりとしない。工事経費は総額で152,218円と伝えられているが、日立鉱山の大煙突建設直後に建設された佐賀関の大煙突工事費用から推測すると、152,218円は大煙突の本体工事のみの金額であり、煙道工事分は計上されていないと考えられる。佐賀関大煙突の煙道建設費用からの推定では、日立鉱山の大煙突の煙道工事も10万円を超えたのではと言われている。 なお、日立鉱山の大煙突建設時に使用された巨大な外足場は、そのあまりの巨大さと風が吹いたときなどの危険性の問題を設計責任者である宮長平作は強く認識した。そのため1916年(大正5年)に建設された550フィート(約167.64メートル)の佐賀関の大煙突では、九州が台風の常襲地域であることなどを考慮して、内足場の特許を持つアメリカのウエーバー・チムニー・カンパニー(Weber Chimney Company)の設計、技術指導を受けて建設が進められることになった。
※この「困難を極めた建設」の解説は、「日立鉱山の大煙突」の解説の一部です。
「困難を極めた建設」を含む「日立鉱山の大煙突」の記事については、「日立鉱山の大煙突」の概要を参照ください。
- 困難を極めた建設のページへのリンク