困難続く追放社人
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/24 18:17 UTC 版)
宝暦6年(1756年)閏11月、石徹白豊前が江戸に呼び出された後も、石徹白では豊前派の社人が郡上藩の役人の協力を受けつつ、追放された社人の家屋を勝手に取り壊して薪にしたり、訴訟の対象となっている白山中居神社の造営山や追放社人の持山を勝手に伐採するといった、豊前がいる時と全く変わらない状態が続いていた。宝暦5年(1755年)末の500名あまりの社人追放から約1年が経過し、餓死者は40名を越えた。事態の好転がなかなか見られぬ中で、追放社人らの疲労は増していった。 このような中で、各務郡芥見村の豪農、篠田源兵衛は追放された石徹白社人のために多額のお金を貸し続けた。また、石徹白豊前の片腕とも言われていた豊前の妹婿の上杉左門が、妻子と離縁して石徹白を去り、追放社人側に加担するといった出来事も起こった。上杉左門がもたらした最新の石徹白情勢を分析する中で、膠着した事態を解決するために新たな訴訟を進めることになった。
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