各編集長時代
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吉行淳之介(1972年1月号-6月号) 作家らに1時間ほど話してもらった内容をリライトして「随舌」と称した(「随筆」は原稿料が高く付くという吉行の発案による)。創刊号は大岡昇平、金子光晴、岡本太郎、山藤章二、開高健の「随舌」を掲載。この企画は終刊まで続いた。他に「奇人外伝」「変わった人物インタビュー」など掲載。 野坂昭如(1972年7月号-12月号) 7月号に「四畳半襖の下張」を掲載、発禁。佐藤、野坂が起訴される。 1973年に初公判、1976年に一審で有罪判決。公判では丸谷才一、五木寛之、井上ひさしなどの反論もあり、雑誌の知名度が一気に高くなり、毎号完売状態となった。 開高健(1973年1月号-6月号) 対談「随時小酌」、コラム「トイレ探訪」「私の葬式」などを掲載。(開高が2月から6月までベトナムへ取材旅行のため、実際にはあまり関わることができなかったという) 五木寛之(1973年7月号-12月号) 五木寛之「日本腰巻文学大賞」を開始、休刊まで毎年実施され、8回、実施された。第1回受賞は、新潮社の山口瞳『酒飲みの自己弁護』。ソンコ・マージュ「ギター無宿世界放浪記」が人気となる。 藤本義一(1974年1月号-6月号) 各方面から集めた「没」原稿特集(1974年2月)、竹中労「あえて美空ひばりを弁護する」、大島渚「縁起の悪い話」、阿奈井文彦「三途の川を渡る」、対談「加虐被虐是好日」などが話題となる。 金子光晴(1974年7月号-12月号) 「面白半分電話対談」で第1回は北杜夫VS佐藤愛子。 井上ひさし(1975年1月号-6月号) 特集「テレビ、人間、…」「テレビお偉方身元調査」など、テレビに関する記事で特徴を出した。 野坂昭如(1975年7月号-12月号) 篠沢秀夫の連載など。 遠藤周作(1976年1月号-6月号) 「神父さんの好奇心座談会」、講談「四畳半年増の色張」、井上洋治神父とトルコ嬢の「激烈対談」など掲載。 開高健(1976年7月号-12月号) サントリー社長佐治敬三との連載対談など。 田辺聖子(1977年1月号-6月号) 匿名座談会「男性作家読むべからず」(出席者の佐藤愛子、中山あい子、田辺聖子は写真を掲載)。高橋孟(カモカ・シリーズのイラスト担当)の「海軍めしたき物語」(1977年1月-)は後に新潮社から単行本化されてベストセラーとなった。筒井康隆の露悪的な日記「腹立半分日記」を連載(1977年1月-1978年6月)。 筒井康隆(1977年7月号-1978年6月号) クレージーな持ち味で人気が高まり、発行部数も増加。編集長も延期して1年間務めた。山下洋輔「全冷中顛末記」、タモリ「ハナモゲラ語の思想」連載。タモリの原稿が締め切りに間に合わず、4ページ分が真っ白のまま店頭に並んだことがある。佐藤嘉尚の呼びかけで、小林亜星に会長を頼み、「大日本肥満者連盟(大ピ連)」が結成されたことも話題となった。 佐藤によれば、筒井編集長時代が一番売れ行きがよかったが、以前からの負債もあり、原稿料の未払いが続いていた。筒井は「自分が編集長をした一年間については責任がある」と言って、原稿料分(ウン百万)を立て替えてくれたという。 半村良(1978年7月号-12月号) 架空のお茶の家元「南千家流」を特集し、アン・ルイスらが入門した。特集「皇居再利用計画」「次期元号は"早稲田"(法政でも可)に決定」など。 井上ひさし(1979年1月号-6月号) 特集「テレビCMまる一日」「世界最新テレビ事情」など、テレビに関する記事。 田村隆一(1979年7月号-12月号) 小詩集など。 佐藤嘉尚(1980年) 発行人として編集長交代制休止。8月号を出した後に倒産し、9月号以降は休刊。 「臨終号」は常連ライター・元編集者の有志(阿奈井文彦、牛坂浩二、土屋健ら)が企画編集したもので、歴代編集長らが登場。発行所は「土筆舎」となっている。
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