古アッシリア時代
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プズル・アッシュール1世(前1975年頃) シャリム・アフム イルシュマ エリシュム1世(前1939年頃 - 前1900年頃) イクヌム サルゴン1世(アッカド王のサルゴンとは同名だが、時代の異なる別人) プズル・アッシュール2世 ナラム・シン(アッカド王のナラム・シンとは同名だが、時代の異なる別人) エリシュム2世 シャムシ・アダド1世(前1813年 - 前1781年) イシュメ・ダガン1世(前1780年 - 前1741年)ムト・アシュクル(イシュメ・ダガン1世の子。王名表には記載がない) アシヌム(イシュメ・ダガン1世の子。一時アッシュール市を支配(?)。王名表には記載がない) アッシュール・ドゥグル 「無名の人の子」の一人。 アッシュール・アプラ・イディ 「無名の人の子」の一人。 ナツィル・シン 「無名の人の子」の一人。 シン・ナミル 「無名の人の子」の一人。 イプキ・イシュタル 「無名の人の子」の一人。 アダド・サルル 「無名の人の子」の一人。 アダシ(前1700年頃) 「無名の人の子」の一人。 ベル・バニ(前1700年 - 前1691年) リバヤ(前1690年 - 前1674年) シャルマ・アダド1世(前1673年 - 前1662年) イプタル・シン(前1661年 - 前1650年) バザヤ(前1649年 - 前1622年) ルルラヤ(前1621年 - 前1618年) シュ・ニヌア(前1615年 - 前1602年) シャルマ・アダド2世(前1601年) エリシュム3世(前1598年 - 前1586年) シャムシ・アダド2世(前1585年 - 前1580年) イシュメ・ダガン2世 シャムシ・アダド3世 アッシュール・ニラリ1世(前1547年 - 前1522年) プズル・アッシュール3世 エンリル・ナツィル1世 ヌル・イリ アッシュール・シャドゥニ アッシュール・ラビ1世 アッシュール・ナディン・アヘ1世 エンリル・ナツィル2世 アッシュール・ニラリ2世 アッシュール・ベル・ニシェシュ アッシュール・リム・ニシェシュ アッシュール・ナディン・アヘ2世(? - 前1393年頃)
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古アッシリア時代
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前21世紀の終わり、あるいは前20世紀半ば、メソポタミアで覇権を握っていたウル第3王朝が滅亡した(編年の問題については古代オリエントの編年を参照)。メソポタミアではアムル人(アモリ人)と呼ばれる西セム系の言語を使用する人々の部族集団が各地で王朝を開き覇権を争った。この時代、メソポタミアとアナトリアの間の交易が隆盛し、アッシュル市はその戦略的な立地から大きな利益を得た。この頃、アッシリア商人はバビロニアとアナトリアの中継貿易に従事し、各地でカールム(港)、ワバラトゥムなどと呼ばれる居留地を建設した。商人はキャラバンによって商品を運び、アッシリア人居留地で取引を行った。こうした居留地の中で最大のものは現在のトルコ領にあるカネシュ(キュルテペ)のものであった。この頃からアッシュル市(アッシリア)の政治史が具体的に把握できるようになり、古アッシリア時代(前1950年頃-前1750年頃)と呼ばれている。 アッシュル市自体もまた、アムル系王朝とメソポタミアの諸都市の覇権争いと直接的に関わった。前19世紀末、アッシュルを拠点としたアムル系の族長シャムシ・アダド1世(在位:前1813年-前1781年、中年代説)が北部メソポタミアで巨大な王国を築き上げた。彼は『アッシリア王名表』と呼ばれる歴代アッシリア王の一覧にリストされていることからアッシリア王として扱われ、その王国はしばしば最初の「アッシリア帝国」と見做される。しかし近年ではこのシャムシ・アダド1世の王国は「上メソポタミア王国」という表現でも言及される。この時代、巨大な王宮が建設され、アッシュル神殿もジッグラトが拡大され、拡張された。しかしながら、アムル人のバビロン王ハンムラビ(バビロン第1王朝)による征服によってこの帝国は終焉を迎えた。ハンムラビは1756年頃の「アッシリア王」イシュメ・ダガン1世の死後、彼の王国にアッシュルを組み入れた。続く3人のアッシリア王は臣下であるとみなされた。
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古アッシリア時代
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詳細は「イシン・ラルサ時代」を参照 紀元前2000年紀に入ると、アッシリア史が具体的に姿を現し始める。古アッシリア王国は前1975年頃にプズル・アッシュール1世によって開始された。この時代のアッシュールは、まだ都市国家の一つに過ぎなかったが、アッシリア商人は交易活動を広く行い交易先の各地の都市に隣接して商業植民市カールム(港湾区)を作ったことで知られる。またその他にも、ワバラトゥムと呼ばれる居留区を作り、北メソポタミア一帯をその商圏とした。 国家制度の点では、アッシュル市が極めて重要な意味を持った。この頃には既にアッシュルの神格化は完全に進んでおり、この都市名を記述する時には神を意味する限定詞ディンギルが付された他、地名を意味する限定詞キが付された場合や、限定詞無しの場合でも、同じようにアッシュル神を指した。そして、アッシュル市ではアールムと呼ばれる市民会の決定が重要視され、その決定は遠くアナトリア半島などの商業拠点にも伝えられていたが、そのアールムの議長を務める役職として、リンム職がエリシュム1世によって初めて設けられ、アッシリア政治制度の根幹が完成された。 この時代のアッシリア王は、その称号としてアッシュルの副王を名乗っており、神格化された国土アッシュルと人間との関係を祭礼によって仲介することで市の繁栄を保障する役割を負った。また王は同時に商人達の統率者であり、監督官(ワクルム、新アッシリア時代にはウクル)と言う称号を用いて司法権を行使し商業上のトラブルを治めた。 政治史的には、紀元前1813年にアッシリアを征服して王となったアムル人、シャムシ・アダド1世の存在が極めて重要である。彼はアッシリアにシュバト・エンリル市を築き、そこを拠点にオリエント最大の王国を築きあげたほか、バビロニア風の王権概念を持ち込んで自らを「世界の王」と称した。またアッシリア王名表が初めて編纂され、その王統譜が整理された。だが、彼の後継者達はその巨大な王国を維持することが出来ず、王の称号もアッシュルの副王に戻り、世界の王を称する者は古アッシリア時代を通じて現れなかった。紀元前1750年頃以降の時代は、文献史料も見つかっておらず、中アッシリア時代に入るまでの歴史は殆ど明らかになっていない。アナトリア諸都市に設けられたカールムなどの商業拠点もヒッタイトの台頭によって破壊されたと考えられており、この時代の終わりとともに戦火によって廃絶している。
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