南仏カーニュ(1903年-1919年)
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「ピエール=オーギュスト・ルノワール」の記事における「南仏カーニュ(1903年-1919年)」の解説
1903年、南仏カーニュ=シュル=メールで、郵便局のある建物(ヴィラ・ド・ラ・ポスト)に住むようになった。子煩悩なルノワールは、これまでも、長男ピエール、二男ジャンをモデルに多くの作品を描いてきたが、三男クロード(愛称ココ)が生まれてからは、クロードの成長記録のように更に多くの作品のモデルとした。また、ルノワールは、晩年、リヨン出身の画家アルベール・アンドレ(英語版)を息子のように愛し、アンドレはエッソワやカーニュのルノワール邸を頻繁に訪れた。彼は、晩年のルノワールの姿を数多く描くとともに、1919年、ルノワールの言行を記した『ルノワール』を刊行した。 ルノワールは、1904年のサロン・ドートンヌでは一室を与えられ、1905年には、サロン・ドートンヌから名誉総裁の称号を授与された。1906年、メトロポリタン美術館がルノワールの『シャルパンティエ夫人とその子どもたち』を購入した。 1907年、カーニュ=シュル=メールのレ・コレットに別荘を買い、晩年をここで過ごした。しかし、リューマチが悪化し、1910年夏にミュンヘンに旅行したものの、帰国後、歩くことができなくなり、車椅子での生活となった。ジャンの回想によれば、レ・コレットには、モーリス・ドニ、ポール・シニャック、ピエール・ボナール、アンドレ・ドラン、アンリ・マティス、パブロ・ピカソなど、若い画家が毎日のように訪れてきていたという。1906年にアリスティド・マイヨールがルノワールの胸像を制作したことを機に彫刻に興味を持ち始め、画商ヴォラールの勧めで彫刻を手がけるようになった。1913年以降は、マイヨールの弟子リシャール・ギノ(英語版)が、ルノワールのデッサンと指示に基づいていくつもの彫刻作品を生み出した。 1911年10月、レジオンドヌール勲章4等勲章を受章した。1912年、手術を受けたが、良い結果にはならなかった。この年、デュラン=リュエルがカーニュを訪れ、椅子から立ち上がることもできないルノワールの様子を見るが、「描く時は、かつてと変わらない、上機嫌で、幸福な彼を見ることができた。」と語っている。動かない手に絵筆を縛り付けたルノワールの写真が残っている。アルベール・アンドレによると、縛り付けた絵筆は制作中は外せないため、絵具を変える度に絵筆を洗わなければならず、画面とパレットと筆洗との間を慌ただしく行き来するうちに、腕は疲労で硬直していたという。こうした苦闘の中から、歓喜に満ちた作品を生み出していった。 1914年、息子ピエールとジャンが出征し、負傷した。1915年、妻アリーヌは、負傷したジャンを見舞いに行った帰り、糖尿病が悪化して56歳で亡くなった。 1919年2月、レジオンドヌール勲章3等勲章を受章した。その年、ルーヴル美術館が『シャルパンティエ夫人の肖像』を購入し、ルノワールは、美術総監に招かれ、自分の作品が憧れの美術館に展示されているのを見ることができた。 同年12月3日、カーニュのレ・コレットで、肺充血で亡くなった。ルノワールは、死の数時間前、花を描きたいからと言って筆とパレットを求め、これを返す時、「ようやく何か分かりかけてきたような気がする。」とつぶやいたという。もっとも、この伝説の出所は不明であり、デュラン=リュエルによれば、「私はもうだめだ。」とつぶやいたという。長男ピエールによれば、「2日にわたり肺の鬱血に襲われたが、心臓が止まった時には回復していた。彼の最後の瞬間はかき乱され、半ば無意識の一時的錯乱状態でよくしゃべったが、直接彼に話しかけると大丈夫だと答えた。それから彼はまどろみ、約1時間後に呼吸は止まった。」という。 ルノワールの訃報を聞いたモネは衝撃を受け、「とてもつらい。私だけが残ってしまったよ。仲間たちの唯一の生き残りだ。」と友人に書いている。 『カーニュのテラス』1905年。油彩、キャンバス、46 × 55 cm。ブリヂストン美術館。 『横たわる裸婦(フランス語版)』1906年頃。油彩、キャンバス、67 × 160 cm。オランジュリー美術館。 『アンブロワーズ・ヴォラールの肖像』1908年。油彩、キャンバス、81.6 × 65.2 cm。コートールド美術研究所。 『道化の衣装のクロード・ルノワール(フランス語版)』1909年。油彩、キャンバス、120 × 77 cm。オランジュリー美術館。 『白い帽子の自画像(フランス語版)』1910年。油彩、キャンバス、42 × 33 cm。個人蔵。 『足を拭く浴女』1910年頃。油彩、キャンバス、84 × 65 cm。サンパウロ美術館。 『薔薇を持つガブリエル(イタリア語版)』1911年。油彩、キャンバス、55.5 × 47 cm。オルセー美術館。 『パリスの審判』1913-14年頃。油彩、キャンバス、73 × 92.5 cm。ひろしま美術館。 『勝利のヴィーナス』1914年。ブロンズ、177.8 × 106.7 × 81.3 cm。ノートン・サイモン美術館。 『浴女たち』1918-19年頃。油彩、キャンバス、110 × 160 cm。オルセー美術館。
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