南仏への介入
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/16 16:15 UTC 版)
「ハイメ1世 (アラゴン王)」の記事における「南仏への介入」の解説
生誕地であるモンペリエからは財政援助を受け取っていたが、神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世の工作でモンペリエの貴族層がハイメ1世の支配を排除し、モンペリエの支配権で王と争っていたマグローヌ司教も便乗して、1238年8月にモンペリエをトゥールーズ伯レーモン7世に与えた。これに危機感を覚えたハイメ1世はバレンシア征服を中断して1239年6月にモンペリエへ向かい、部下である町の代官と職人層と組んで執政官など町の支配層を追放したり、トゥールーズ伯と従兄のプロヴァンス伯レーモン・ベランジェ4世の訪問を迎えたり、南仏の影響力保持に尽力した。1241年3月にモンペリエを再訪問、トゥールーズ伯とプロヴァンス伯を政略結婚で結び付けようとしたがプロヴァンス伯がイングランドを選び実現せず、南仏連合軍はフランス王ルイ9世の前に敗れたため、南仏に見切りをつけたハイメ1世はフランスとの戦争を避けてバレンシア征服に戻った。 フランスとの関係においては、ピレネー山脈の両側にまたがる国家を樹立し、ロワール川以北の権力と拮抗させようとした。しかし危険を冒す事はなく、ルイ9世と1258年にコルベイユ条約を結び、自身の地位を認めさせ、有名無実となっているカタルーニャに対するフランスの支配権を放棄させた。
※この「南仏への介入」の解説は、「ハイメ1世 (アラゴン王)」の解説の一部です。
「南仏への介入」を含む「ハイメ1世 (アラゴン王)」の記事については、「ハイメ1世 (アラゴン王)」の概要を参照ください。
- 南仏への介入のページへのリンク