南京防衛戦とその後
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日中戦争(抗日戦争)勃発後の1937年(民国26年)11月、唐生智が南京衛戍司令に任命されると、周斕は同司令部参謀長に任ぜられ、さらに陸軍中将銜を加えられた。翌月の南京防衛戦では唐を補佐して作戦に従事し、唐が南京を脱出する際には傍らで警護を務め負傷したが、残軍の退却指揮なども請け負っている。 退却後、周斕は唐生智と共に職務から罷免されてしまうが、その後は陸軍大学での学習に転じ、翌年春に卒業した。まもなく、湖南省政府主席張治中の招聘を受けて周は同省政府総参議に任ぜられる。後任の省政府主席薛岳からも周は総参議に留まるよう要請され、1941年(民国30年)6月には省政府委員となり、1943年(民国32年)5月には同省政府民政庁長となった。この間、周は長沙会戦を戦う薛を特に行政面で善く補佐している。1944年(民国33年)に呉奇偉が薛の後任として省政府主席となっても、やはり呉から湖南省政への関与を求められ、1945年(民国34年)8月には省政府湘南行署主任を務めた。 戦後の周斕は立法院立法委員を務める。国共内戦末期の1949年(民国38年)、程潜・陳明仁らが中国共産党への起義(反国民党蜂起)を企図して周に相談を持ちかけると周もこれに応じ、同年8月、起義は成功した。しかし中華人民共和国建国後に周は心臓病で倒れたため、特に公職に就くことは無く長沙市で療養生活を送っている。 1953年、長沙市にて病没。享年63。
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