1913年以降
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「フレッド・マークル」の記事における「1913年以降」の解説
重要な試合での失敗や不運によって、マークルには「ボーンヘッド」の印象が強く付きまとうことになってしまったが、マークル自身はジャイアンツの中軸を担う強打者に成長していた。チームメイトは彼を「チームの中で最も利口な男」と評していた。監督のマグローはマークルについて、「足はそれほど速くなかったのだが、マークルは三盗が上手かった」と書き記している。 マークルは1915年シーズンまでジャイアンツの正一塁手として活躍した。1913年の12月、マークルはマグローが率いる世界周遊野球チームの一員として来日し、芝区の三田球場で行われたエキシビション・ゲームでレフトの場外に大きなホームランを放っている。打球は三田球場のレフト場外の芝区と麻布区の境界だった古川を超え、このホームランは「芝から麻布まで飛んだホームラン」として、当時長く話題になった。 1915年シーズン途中、マークルは捕手ルー・マッカーティーとのトレードでブルックリンに移籍したが、ブルックリンでは24試合しか出場せず、翌年シカゴ・カブスに金銭でトレードされる。カブスには1920年まで3年在籍し、1918年のワールドシリーズにも出場している。カブスを離れた1921年からはインターナショナルリーグのロチェスターに在籍し、1924年に22本の本塁打と打率.351の成績を残した。この年ヤンキースがこの活躍に目をつけ、マークルは1925年にコーチ兼任の選手としてメジャーリーグに再度登場することになる。マークルの移籍に関して、当初ロチェスターはまだ若かったルー・ゲーリッグを見返りに求めたが、これはヤンキースが拒否し、結局金銭でのトレードになった経緯があるという。 ヤンキースに2年在籍した後マークルは引退し、マイナーリーグの監督を短期間勤めた後、フロリダでルアーの製造会社の共同経営者などをしていた。1956年にフロリダ州デイトナビーチで死去。
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