1913年全米オープン
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「フランシス・ウィメット」の記事における「1913年全米オープン」の解説
1913年、ウィメットは20歳で最初の重要なゴルフ大会であるマサチューセッツアマチュアに優勝し、さらにその後もこの大会では5回優勝した。彼は9月上旬にニューヨーク州のロングアイランドにあるガーデンシティーゴルフクラブで開催された米アマチュアゴルフ選手権に出場、準々決勝で、最終的にこの大会の優勝者となるジェローム・トラバーズに敗れたが、この対戦を見ていた当時の USGA 会長ロバート・ワトソンから、主としてプロが出場する大会である全米オープン選手権に出場しないかと個人的に誘われた。全米オープンは通常毎年6月に開催されるが、この年は9月中旬に変更されていた。著名な英国人ゴルファーであるハリー・バードンとテッド・レイを招待するためだった。バードンは1900年の全米オープンの勝者で、全英オープンにはこのときまでに5回優勝していた。レイは前年(1912年)の全英オープン優勝者だった。1913年の全米オープンはウィメットが一番よく知っているブルックラインのザカントリークラブで開催される。ウィメットは当初は辞退した。仕事を休んで全米アマに出場して帰ったばかりだというのがその理由だった。だが雇用主の協力が得られ出場できることが決まった。 ウィメットにとって全米オープンに出場するのはこれが初めてだった。10歳のエディー・ロワリーがウィメットのキャディを務めた。72ホール(3ラウンド)を終了してウィメット、バードン、レイの3人が同スコアで並び、翌日、雨の降るなか18ホールのプレーオフが行われた。ウィメットはこのプレーオフを1アンダーで回り、バードンに5ストローク、レイに6ストロークの差をつけて優勝した。この勝利は、世界のトップ2とみなされ、強い人気を誇った英国人を破ったという驚愕と動揺を広くもたらした。全米オープンに初めて優勝したアマチュアでもあり、プレーオフにはこれまでにない数のギャラリーがついた。ウィメットの優勝を国中の新聞がトップページで報道した。 ウィメットの全米オープン優勝により、ゴルフは米国の主要スポーツの一つとなった。この勝利まで、ゴルフ界は英国人に独占支配されており、また米国ではゴルフはプライベートなクラブに入会できる者だけがプレーできるものと考えられていた。公営のゴルフ場の数も少なかった(最初の公営コースはニューヨークシティのヴァンコートランドゴルフコースで、開設は1895年)。1913年のウィメットの優勝後10年間でゴルフ人口は3倍に増え、公営ゴルフ場を含む沢山のコースも開場した。 1963年、ボストンの公共テレビ局であるWGBH-TVは、1913年の全米オープンでの勝利50周年を記念して、マサチューセッツ州ブルックラインのザカントリークラブにおいてウィメットとのインタビュー収録を実施し、これを放送した。ウォルトディズニー映画 “The Greatest Game Ever Played” のDVD版にはそのインタビューシーンが付録されている。ディズニー映画社は「artistic license(詩的許容)」を取得しており、実際にはウィメットは2位に5ストロークのリードで優勝したが、映画では1ストローク差で勝利したと描写されている。
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