「西康省」建省をめざす中国とチベットの抗争
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1905年、四川総督の趙爾豊は、この地方をより強固に掌握するため、蜀軍を率いてカム地方に侵攻し、諸侯領やニャロン・チーキャプを廃止し、この地方に省を設けようとこころみた(西康省建省運動)が、諸侯の武力抵抗を引き起こした。 1913年以降は、チベット全土の統合を目指すチベット政府と中華民国との抗争の最前線となった。中華民国の北京政府歴代政権では、省を設置する条件がととのわないため、ながらく「特別行政区(英語版)」にとどまり、川辺特別区と称されていた。1928年に発足した国民政府は、名目上の領域の東部しか実効支配できないまま、1939年「西康省」を発足させた。 中国人民政府の統治下では、1950年、東部にアムド地方の一部とあわせて「西康省蔵族自治区」がもうけられ、ダライラマ政権の統治下にあった西部には昌都解放委員会が設けられた。 中国人民政府は、カム地方の西部地方を「西康省蔵族自治区」に組み込むことはせず、「昌都解放委員会」の「委員」たちを「西藏自治区籌備委員会(せいぞうじちくちゅうびいいんかい)」に参加させた。
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