「西暦」の誕生と東ローマ帝国の暦法とは? わかりやすく解説

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「西暦」の誕生と東ローマ帝国の暦法

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/24 21:05 UTC 版)

ローマ暦」の記事における「「西暦」の誕生と東ローマ帝国の暦法」の解説

6世紀ディオニュシウスは、キリスト教迫害したディオクレティアヌス起源とする暦年法は問題があるという理由で、A.D.1年キリスト生まれた西暦1年変更した。しかしこれが一般に使われるうになるには時間かかったまた、ディオニュシウス計算誤っており、A.D. 1年キリスト生誕の年でないことにも注意する必要がある今日では、キリスト生誕紀元前4年考えられている)。紀元前を表す B.C.記号は、17世紀になってから始まった。 なお、宗教上の配慮から、A.D. を C.E. (Common Era, Christian Era) 、B.C. を B.C.E. (Before C.E.) と書くこともある。C.E. 1年西暦1年同義で、B.C.E. 1年紀元前1年同義である。(ちなみに0年は今も当時存在しない一方東ローマ帝国では、6世紀まで執政官年代記していたが、541年には執政官制度廃止されてしまった。このため前述インディクティオ用いるようにしたが、インディクティオ15年一周するために、ただ「第3インディクティオといって複数あって、長期効力発する法律勅令行政文書などには向かなかった。やがて皇帝在位年数で数えようになったが、結局これも定着せず、10世紀皇帝レオーン6世時代になると世界創造紀元紀元前5509年に当たる年を神が天地創造した年とし、これを元年とするもの)が採用されるようになり、インディクティオ併用されようになった世界創造紀元ロシアなどの正教会諸国でも近代に至るまで使用されていた。

※この「「西暦」の誕生と東ローマ帝国の暦法」の解説は、「ローマ暦」の解説の一部です。
「「西暦」の誕生と東ローマ帝国の暦法」を含む「ローマ暦」の記事については、「ローマ暦」の概要を参照ください。

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