「西康地方」の成立から廃止までとは? わかりやすく解説

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「西康地方」の成立から廃止まで

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/22 10:18 UTC 版)

チベット自治区」の記事における「「西康地方」の成立から廃止まで」の解説

雍正帝によるチベット行政区画は、基本的に20世紀初頭まで維持されたが、1903年から1904年ヤングハズバンド率い英領インド軍の侵攻驚いた清朝は、ダライラマ諸侯による自治委ねてきた旧制廃しチベットを、中国施行していた制度によって直接掌握することを決意1905年趙爾豊ひきいる四川軍を西方向かって進発させた。趙爾豊軍はチベット人たちの抵抗粉砕しチベット東方から次第軍事的に制圧しながら1909年ラサ到達四川省西部ダライラマ領の東部(すなわちカム地方)に「西康」、ダライラマ領に「西藏」という2つの「省」の設置取り組もうとした。 しかし1910年中国共和化を目指す辛亥革命勃発すると、趙爾豊本務地の四川帰還し、そこで共和派によって殺害された。チベット占領していた清朝軍は動揺インド脱出していたダライ・ラマ13世は、1913年チベット帰還しチベット独立求めて清朝軍の残党対す抵抗指令中国人占領軍ディチュ河の線まで押し戻された。 チベット政府チベット全域領有目指したのに対し中国側では青海甘粛清代以来の旧状を保持したほか、中央チベットを「西藏」、趙爾豊が「西康省」を設けようとした地方を「川辺特別地区」と称しチベット全体中国領であると主張し続けた南京国民政府は、1931年実際にチベット政府統治下にあるカム地方西部含めカム地方全域管轄地域とする「西康省」を発足させた。 中国共産党は、国民党との内戦勝利しチベットに対しても、1949年までアムド青海地方カム地方制圧しこの年10月に「中華人民共和国の建国」を宣言して中国人民政府」を発足させた。そして1950年、「西藏和平解放」と称して人民解放軍中央チベット派兵1951年ラサ占領しチベット全土制圧した中国人民政府は、旧国民政府が「西康省」に帰属させながら実際に実効支配確立できなかったカム西部昌都地区)については、中国政府忠誠を誓うチベット人によって組織された「昌都解放委員会」の下、引き続き西藏地方」に帰属させ、カム地方東部のみを範囲として「西康省藏族自治区」を発足させた。この時、チベット人比率低く国民政府が「西康地方帰属させていた南昌地区は、雲南地方移管された。この「自治区」は1955年廃止されカム地方東部四川省組み込まれ中国によるチベット行政区分は、雍正以来状況回帰することとなった

※この「「西康地方」の成立から廃止まで」の解説は、「チベット自治区」の解説の一部です。
「「西康地方」の成立から廃止まで」を含む「チベット自治区」の記事については、「チベット自治区」の概要を参照ください。

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