労働省時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/06 02:34 UTC 版)
東大在学中、国家公務員6級試験に合格し、労働省に入省、婦人少年局婦人課に配属される。11月に花見忠(後、上智大学教授)と結婚。愛娘の自立を見届けたかのように父が死去。 赤松が配属された婦人少年局には、局長の藤田たき(津田塾教授)を始め、課長田中寿美子(後、参議院議員)、高橋展子(デンマーク大使)、森山真弓(環境庁長官、内閣官房長官、文相、法相)らが所属していた。 出産・育児に加え、仕事面でも男性キャリアと比較して昇進が遅いなど雌伏の時を過ごす。1958年(昭和33年)入省5年目にして埼玉労働基準局に転任。1960年(昭和35年)、本省に戻り職業安定局労働市場調査課勤務。1963年(昭和38年)国際連合フェローシップ試験に合格し、渡米。1963年(昭和38年)10月から1964年(昭和39年)4月まで、ワシントンDC、クリーブランド、シカゴ、デトロイトなど米国東部で女性の労働事情について研究、欧州視察を経て1964年(昭和39年)6月に帰国。 婦人少年局婦人労働課係長を経て、同課長補佐となる。1966年(昭和41年)青杉優子の筆名で住友セメント事件に関する論文を発表。 1968年(昭和43年)群馬労働基準局労災課長を経て、本省婦人労働課長補佐、1970年(昭和45年)婦人課長、婦人労働課長を歴任。婦人労働課長時代、勤労婦人福祉法立案に際し、育児休業制度を盛り込む。1975年(昭和50年)、女性で初めて山梨労働基準局長に就任。 1978年(昭和53年)、総理府婦人問題担当室長を経て、1979年(昭和54年)、国連日本政府代表部公使に任命される。国連公使として女子差別撤廃条約に賛成の投票を行う。同条約に署名したことで日本は国内法整備が課題となった。1982年(昭和57年)、労働省婦人少年局長に就任し、男女雇用機会均等法の立案に当たる。翌1983年(昭和58年)労働省の組織改編に伴い、初代婦人局長に就任。1985年(昭和60年)男女雇用機会均等法が制定される。 1986年(昭和61年)駐ウルグアイ大使に任命される。1989年に帰国し、女性職業財団会長、国際女性の地位協会会長、文京女子大学教授、文京学院大学大学院教授などの職を務める。この間、還暦を前に協議離婚。また、文京学院大学院教授の際の弟子に、福祉心理学者、教育哲学者、ジェンダー研究者の望月雅和がいる。 1989年(平成元年)、朝日新聞に設置されたばかりのオンブズマンに就任。犯罪報道における容疑者・被害者の顔写真の扱いを慎重にするべきだなどの見解を示した。
※この「労働省時代」の解説は、「赤松良子」の解説の一部です。
「労働省時代」を含む「赤松良子」の記事については、「赤松良子」の概要を参照ください。
- 労働省時代のページへのリンク