冒頭陳述変更
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 11:59 UTC 版)
「富山・長野連続女性誘拐殺人事件」の記事における「冒頭陳述変更」の解説
1985年3月5日に開かれた第125回公判で、北野弁護団による北野への被告人質問の終了後、次席検事の松井永一が発言を求め、冒頭陳述の大幅な変更を行った。その内容は以下の通り(全18か所)で、「殺害・死体遺棄の実行行為はMが実行したが、北野も犯行の前や途中に共謀した共謀共同正犯である」と位置づける内容だった。 冒頭陳述の新旧対照表訂正前訂正後富山事件殺害 - 北野が単独で実行 死体遺棄 - 2人(Mと北野)が共同で実行 2月25日夜、Mは高山に向かう途中でAに睡眠薬を飲ませようとしたが、「錠剤が飲めない」というので断念し、疲れを待って自然に眠らせることを考えた。遺留品は翌日(2月26日)14時ごろに処分した。殺害現場はドライブイン「すごう峠」の駐車場。 殺害・死体遺棄ともMが単独で実行 2月25日夜、MはAに睡眠薬「ネルボン」を飲ませ、神岡町内で北野を待っていたが、北野が来なかったため、単独で殺害を決意。自らAを殺害して死体を遺棄し、富山市の自宅に帰り、遺留品は翌日朝に処分した。殺害現場は数河高原スキー場の駐車場。 長野事件2人は事前の謀議で、誘拐後に松本市内で待ち合わせることや、殺害後にMがフェアレディZで北野をホテルへ送り、Mは現場付近に引き返すことを決めた。その後、Bを誘拐することに成功したMは、Bにネルボンを2錠飲ませ、合流した北野が3月6日4時30分ごろにBを絞殺した。 3月3日夜、2人は殺害場所を下見しながら話し合った。この時、北野が「自分も殺害に加わる」と申し出たが、Mは北野の対応の鈍さを指摘し、「自分1人の方が成功するから、ホテルで待っていて」と言った。Bを誘拐したMは、3月5日22時ごろにBに睡眠薬を飲ませ、深夜 - 早朝にかけて殺害・遺棄に適した場所を探して回り、青木村の林道で殺害・死体遺棄を実行。その後、翌日(3月6日)14時ごろに北野と合流し、2人で東京方面に向かった。 これは、それまでの公判・証拠調べで富山事件・長野事件とも、発生現場付近で北野の目撃証言が得られなかったことから、北野が実行に加担していたことを立証することが困難となった検察側が、Mの単独実行を積極的に立証する方針で行ったものだった。検察は冒頭陳述変更と同時に、Mの実行を立証するため、71点の証拠(フェアレディZの目撃証言や、長野事件発生時に北野が見ていたテレビ番組の内容など)を証拠申請したが、それらの証拠は、1984年春ごろから洗い直しを進めていたものだった。 それでも富山地検(次席検事:松井永一)は、「北野が共謀共同正犯である(事件に加担している)ということに変わりはなく、北野の量刑がMより軽くなるとも限らない」という姿勢を崩していなかったが、北野弁護団と北野の母親は、「冒頭陳述訂正は、(初公判から)丸5年経っており、遅きに失し、共謀に関する主張を残している点は遺憾だが、Mの供述を嘘と認めるもので、この姿勢は英断と認められる」という声明を出した。一方、Mの弁護団は「事件から5年が経過し、反証材料を探すのが難しい今になって冒頭陳述を変更するのは甚だ遺憾で、Mの防御権を侵害するものだ」として、冒頭陳述訂正を批判するコメントを出し、続く第126回公判(同年3月19日)でその撤回を求める意見を述べた。しかし、裁判官3人の合議により、冒頭陳述の訂正は認められ、富山地検は同月28日、訴因の変更申請書を富山地裁へ提出。第127回公判(同年4月15日)で、新主張に沿うような訴因変更を請求し、許可された。 一方、Mは自身を実行犯とする冒頭陳述変更に反発。1986年(昭和61年)1月13日に開かれた第151回公判で、M側は「北野は車にテレビを持ち込み、アリバイ工作をした」などと新主張を展開し、続く第152回公判(翌14日)では、Mの弁護人が「事件は特異かつ悲惨なもので、常人の理解を超えている。少なくとも長野事件に関与したMには精神障害があった疑いがある」として、Mの精神鑑定を申請した。しかし、Mは体調不良を訴え、後に子宮筋腫および卵巣嚢腫と診断されたため、第162回公判(同年4月30日)以降は一時出廷できなくなり、八王子医療刑務所へ移送されて手術を受けたが、予後が長引き、第一審判決後の時点でも右下肢の機能が不十分な状態になっていた。第170回公判(同年8月25日)で、捜査当時に北野が捜査当時に弁護人と接見した際の録音テープが、法廷で再生され、証拠採用された。接見時の録音テープの証拠採用は、日本の裁判史上極めて珍しいケースだった。 第187回公判で、検察官は北野側が不同意としてきた「北野調書」30通について、「任意性あり」として改めて証拠請求したほか、「北野調書」と「M調書」17通についても「特信性あり」として証拠請求した。北野弁護団は、いずれの調書についても「北野は取り調べを受けた当時、ネフローゼで体調を崩し、思考力・判断能力とも減退していた中で『男の責任を取れ』などと高圧的な取り調べや、不当な利益誘導を受けるなどして自白しており、『北野調書』に任意性はない。M調書も、共犯者として北野の名を引き出そうとした取調官に迎合したMが、自分の罪を軽くしようと作り話をしたもので、信用性に欠ける」として、証拠請求の却下を求めたが、1987年(昭和62年)3月30日の第189回公判で、大山裁判長は「いずれの調書も任意性がある。北野への取り調べは、医師の診断結果も踏まえて適切に行われていた。また、公判で両被告人の利害が対立しており、Mについては公判での供述より、検察官の面前調書のほうが信用できる」として、調書を全面的に証拠採用することを決定。一方、M弁護団が被告人Mの情状面から請求していた精神鑑定については却下した。
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