冗官の増加
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/03 22:00 UTC 版)
宋では科挙を大幅に拡充し、年間数百人がこの関門をくぐり抜けて官となっていった。しかし官がやるべき仕事がそこまで多いわけではなく、重複ないし不必要な役職、すなわち冗官が増えていた。3代真宗の代に「天下の冗吏十九万五千を減ぜん」との記録がある。 また唐の安史の乱後の律令制の崩壊以降、律令と現実社会との乖離が生まれ、その間を使職と呼ばれる令外官を置いていくことで埋められていった。しかしそのやり方は計画性・長期的視点にとぼしく、体系的な官制を作るものではなかった。宋でもそれは基本的に受け継がれ、唐風の三省六部体制が形骸を残したまま、実際に政治を動かすのは使職という二重体制が布かれていた。このような体制は当然非常にわかり難く、非効率であり、同じような役職が併存するようになっていた。 歳入・歳出表 (単位:匹貫石両)年歳入歳出1021(天禧5) 150,850,100 126,775,200 1048(慶暦8) 103,596,400 89,383,700 1049(皇祐元) 126,251,964 126,251,964 1065(治平2) 116,138,405 131,864,452
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