全鋼製試作車
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/04 06:08 UTC 版)
「愛知電気鉄道電7形電車」の記事における「全鋼製試作車」の解説
また、これら電7形・附3形とは別に、全鋼製車体を備えるデハ3090形1両がこれら2形式よりやや遅れて製造された。 デハ3090形製造の前年にあたる1925年11月に川崎造船所が阪神急行電鉄向けとして日本初の全鋼製車体510号を試作、翌1926年より600形として量産を開始していた。全鋼製車体は構体のほぼ全てを鋼製とし、従来の屋根や内装に木材を使用する半鋼製車と比較してより強固で安全性が高いとされた。実際にも、試作車510号は就役わずか1年たらずの1926年10月14日に三重衝突事故に遭遇したが事故の規模に比して被害は最小限で食い止められた。この事故の顛末や1926年9月に発生した山陽本線特急列車脱線事故で木造客車が脱線大破し多数の犠牲者を出したこと、それに1923年の関東大震災の際に多数の木造客車が焼失したことなどから、脱線事故の当事者である鉄道省は1927年度予算で製作される新車より電車と客車の鋼製車への全面切替を決定した。このため車両メーカー・私鉄の各社も鋼製車に対し非常に強い関心を示すようになっており、510号の事故の結果を踏まえて以後の新車を全て全鋼製とする方針を定めた阪神急行電鉄を筆頭に、1926年頃から全鋼製・半鋼製の車両を導入する社局が急増した。 この時期、愛知電気鉄道沿線に本店工場を置いていた日本車輌製造は、半鋼製車も全鋼製車も日本初のタイトルこそ川崎造船所の後塵を拝し得られなかったものの、半鋼製車の日本における始祖となった神戸市電気局G形の設計製造や鉄道省初の半鋼製車となったデハ73200形電車の試作では川崎造船所とその設計製造を分け合っていたほど当時の最新技術たる鋼製車設計製造技術の導入に貪欲に取り組んでいた。 同社ではこの時期に本店で製作課長を務めていた長屋富吉を含め社員2名が順次渡米して鋼製車設計製造にかかる最新技術の習得にあたっており、その他鋼製車の防錆塗装法として日本国内に広く普及した「NGY式防錆塗装法」を独自開発するなど、第二次世界大戦前の日本における鋼製鉄道車両の開発において一連の動きをリードし基礎を確立した最先端メーカーの1つとなっていた。 こうしたより安全な車両を求める社会的な要請を背景とする技術的な潮流の中で、日本車輌製造本店は1926年に合計4両の全鋼製車両を試作した。 1926年に日本車輌製造が試作した全鋼製車両の第一陣となったのは1926年11月に東武鉄道へ納入されたホハ12形ホハ59・60であった。これは地域的に東京支店の担当であった東武鉄道向けとしては例外的に名古屋の本店で製造されたものである。これら2両の車体形態は3扉デッキなしの電車形であった。だがこれらは形式称号の記号が示すように動力装置を備えない客車、それも真空ブレーキや蒸気暖房装置を搭載し蒸気機関車に牽引されるのが前提で計画され、床下に木造車の名残であるトラス棒を備えた過渡的な機能・構造の車両であった。 これら2両に続いて設計・製造されたのは様式も性能も異なる2両の電動客車であった。 1両は同年12月の元号が昭和に改元された直後に竣工した渥美電鉄デテハ1001で、これは併用軌道である市内線への直通運転を考慮して客用扉下部に折りたたみ式ステップを取り付け集電装置としてトロリーポールを備える、小型の郊外用電車である。 そして残る1両、東武ホハ12形落成から約1ヶ月後の1926年12月に完成したこのデハ3090こそが、日本車輌製造として最初の本格的都市間高速電気鉄道向け全鋼製電動客車であった。 なお、このデハ3090は愛知電気鉄道およびその後身である名古屋鉄道の社内において、メーカーである日本車輌製造が自主的に試作した車両を無償提供されたものと長年伝えられていた。さらにそのような導入経緯に加え、前述の通り竣工時期が年末押し迫った時期となったためか、本車は愛知電気鉄道および名古屋鉄道の社内において「お歳暮電車」と呼ばれていたとされる。
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