個々の建造物
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/22 21:35 UTC 版)
本節では、ソテロ・サントス(1992)による立地区分を用いて説明を行う。 建造物1号 大広場の東セクションの斜面側、大広場の地面から3メートルほど高いテラス上に位置する。現在は崩壊しているが、かつては東西約17メートル南北約7.5メートルの規模で、内部には5つの部屋があった。マーラーの発掘によってリンテル5号から8号が発見され、「4つの彫刻されたリンテルの神殿」、「二重十字の神官の神殿」とも呼ばれる。リンテルに刻まれた日付は752年と755年で、いずれも鳥ジャガー4世の治世の早期のものである。テイト(1992)は建設された時代を9.16.6.0.0.(757年)と推定している。 建造物2号 大広場の東セクションの斜面側、建造物1号の北側にある。内部には部屋がひとつ。唯一の入り口のある正面を北に向けている。マーラーによってリンテル9号が発見されている。「Halachvinicの神殿」とも呼ばれる。リンテル9号の日付は768年で、鳥ジャガー4世に関する最後の記録である。テイト(1992)は建設された時代を9.17.0.0.0.(771年)と推定している。 建造物3号 大広場の東セクションの斜面側、建造物1号の北側、建造物2号の西隣にある。マーラーが発見した1897年当時には既に崩壊しており、現在は整備されて小さな基壇となっている。マーラーによってリンテル10号が発見されている。リンテル10号はヤシュチラン最後のモニュメントで、最後の王キニチ・タトゥブ・頭蓋骨3世に関する唯一の記録である。808年に作成され、建造物3を守護神たちの名を連ねたワイビル(寝殿)として建設したことが記されている。テイト(1992)は建設された時代を9.19.0.0.0.(810年)と推定している。ヤシュチランの人口はこの建造物が建てられた直後から激減していくことが判明している。 建造物4号 大広場の東セクションの北西端に位置する高さ2メートルほどの長方形の大きな基壇。北東-南西の軸は川と垂直に交わり、東セクションの北西端にある建造物8とは並行している。北西面と南東面のそれぞれ中央に幅の広い階段がある。上部構造に使われていた石材は多量ではなく、木製の梁を用いた部屋であったとされる。9.15.0.0.0.(731年)から9.18.0.0.0.(790年)の間に建設されたと考えられる。 建造物5号 大広場の東セクションの川を背にした大きな基壇。東セクションの他二つの基壇とは異なり、川と平行している。上部構造の痕跡は確認できない。また、川に最も近い部分は一段低くなっており、狭い道状になっている。南西に向いた正面には幅14メートル弱、6段、480文字からなる神聖文字の階段1が存在する。神聖文字の階段1は鳥ジャガー4世の時代に、それ以前の彫刻や文字を漆喰で覆って彫りなおされたものである。9.15.0.0.0.(731年)から9.18.0.0.0.(790年)の間に建設されたと考えられる。 建造物6号 大広場の東セクションの川沿いに建つ建造物のひとつ。数メートル東側には建造物5号、すぐ西側には建造物7号がある。マーラーの発見時、外壁に鮮やかに赤く彩色された漆喰が残っていたことから、「川岸の赤い神殿」、または立地から「土手の神殿」と呼ばれた。また、マーラー以外の初期の探検家・研究者たちによっても記録されており、家A(モーズレー)、A(ロペス・デ・イェルゴ)など記号が振られ、シャルネーは特異な建築構造と装飾された外壁の痕跡に言及している。 建造物の外部は、東西11.25メートル、南北8.35メートル、高さは飾り屋根のない部分が約5メートル、飾り屋根の現存している部分の高さが4メートル、南側と北側にそれぞれ3箇所の入り口を持ち、東側と南側にも1つずつ入り口がある。内部には東西に細長い部屋(回廊)が3つあり、大広場に面した南側の入り口と東側・西側の入り口は部屋3につながっている。真ん中にある部屋2は一箇所の出入り口で部屋3とのみ接続している。北側の入り口は部屋1につながっており、部屋1は他の2つの部屋とは壁で分断されている。飾り屋根は建物の規模に比して非常に大きく重いもので、西側が大きく崩れている。南側のフリーズにはマスクのレリーフが現存している。 1976年のINAHによる発掘で、建造物6号、7号、8号が建築された後に、大広場の地面が0.6メートル上がっていたことが判明しており、これらの建造物は古典期前期に建設されたと推測されている。モール(2003)では9.6.0.0.0.(554年)から9.9.0.0.0.(613年)の間としている。またその発掘の際にラカンドン族が祭祀に使った土器が発見されている。マーラーは石造の桟橋などを含む川岸のテラスの建造物が侵食されて失われた可能性を提示している。階段が大広場下方5メートルから建造物6号と建造物7号の北東部に向かって伸びており、これらの建造物は古代において都市の玄関口の役割を果たしていたと考えられている。
※この「個々の建造物」の解説は、「ヤシュチラン」の解説の一部です。
「個々の建造物」を含む「ヤシュチラン」の記事については、「ヤシュチラン」の概要を参照ください。
- 個々の建造物のページへのリンク