初期の探検家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/08/19 01:02 UTC 版)
「エメリー郡 (ユタ州)」の記事における「初期の探検家」の解説
キャッスル・バレーを最初に訪れたアメリカ人は毛皮罠猟師だった。特に初期に「失われた罠猟師」と言われるジェイムズ・ワークマンとウィリアム・スペンサーであり、コマンチェ族インディアンのためにその猟師隊とはぐれ、サンタフェに向かう道を見つけられると期待して、コロラド川のモアブ渡し辺りを彷徨った。そこで2人はカリフォルニアに向かう4、50人のスペイン人隊商と出会った。2人は隊商に加わって1809年にキャッスル・バレーを抜け、カリフォルニアに向かった。1830年、ウィリアム・ウィルフスキルがスパニッシュトレイルに沿ってキャッスル・バレーに来た。ウィルフスキルとその隊は毛皮罠猟師だったが、この地域には獲物が少なかったので留まらなかった。 1840年代後半から1850年代初期の罠猟師達に続いて、連邦政府の探検家がキャッスル・バレーに来て、大陸横断のルートを探った。その中でもキット・カーソンが有名である。カーソンはセントルイスからカリフォルニアまで直接郵便を配達するルートを探していた。実際にカーソンはカリフォルニアで金が発見されたという知らせをキャッスル・バレーを通って国内に伝えた。 1853年、アメリカ陸軍の地形工学技士ジョン・W・ガニソンが太平洋に抜ける鉄道のルート調査のために、キャッスル・バレーを通って来た。この任務は陸軍長官のジェファーソン・デイヴィスから与えられていた。ガニソンはその行程の詳細な記録を残しており、キャッスル・バレーを通るルートも丁寧に見ていた。ガニソンのルートはグリーン川の渡しで先ずスパニッシュトレイルに出会うことになっていた。その後グリーン川の西で短区間このトレイルを辿るが、現在シンバッド・リーフと呼んでいる岩の多い地域に入ると、ここを回り込む線を引いた。 連邦政府の派遣した3人目の探検家がジョン・C・フレモントだった。1853年から1854年に掛けての冬であり、冬季の天候からくる多くの困難さの故にその西への探検は注目されている。彼等は食料の枯渇や人を寄せ付けない地形に苦しめられた。キャッスル・バレーを離れてパロワンのモルモン教徒小集落に進むまでその困難さには休む暇もなかった。
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初期の探検家
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「ワイオミング州の歴史」の記事における「初期の探検家」の解説
1700年代後半にフランス人罠猟師がワイオミング北部に分け入ったはずだが、ルイス・クラーク探検隊の一員であるジョン・コルターが恐らくは最初にこの地域に入った白人アメリカ人だった(1807年)。イエローストーン地域の地熱活動に関するコルターの報告書は、当時作り話だと考えられた。ロバート・スチュアートと5人の隊員がオレゴン州アストリアからの帰路で、1812年にサウス・パス(南の峠道)を発見した。この経路は後にオレゴン・トレイルに使われた。1850年、ジム・ブリッジャーが現在ブリッジャー・パスと呼ばれる場所を特定し、これが後に1868年のユニオン・パシフィック鉄道、および20世紀の州間高速道路80号線に使われた。ブリッジャーはまたイエローストーン地域も探検したが、コルターの場合と同様に、その地域に関する報告書の大半は当時大ぼらだと考えられた。19世紀の初期、マウンテンマンと呼ばれる罠猟師がビーバーを求めてワイオミング西部の山岳地に群がった。1824年、罠猟師による最初の集会がワイオミングで開催された。この集会は1840年まで継続され、その大多数はワイオミングの領域内で開催された。
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