1770年のスペイン人上陸
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 00:16 UTC 版)
「ロンゴロンゴ」の記事における「1770年のスペイン人上陸」の解説
アメリカのジョン・フレンリー(John Flenley)や、ポール・バーン(Paul Bahn)をはじめ、何人かの研究者は、ロンゴロンゴが1770年のスペインのイースター島上陸後、島の併合条約の調印にヒントを得た島の人々が、比較的最近に発明したものであると主張している(1992:203–204)。その状況証拠として彼らは、フランスの修道士、ウジェーヌ・エイロー(Eugène Eyraud)が1864年に報告するまで、ロンゴロンゴの存在を伝えた探検者がいなかったこと、スペインとの併合条約の調印の際に島の首長達が書いた絵文字が、ロンゴロンゴに似ていないことを挙げている。 このような仮説を唱える研究者達は、ロンゴロンゴがラテン文字や他の文字体系の模倣であると主張しているのではなく、文化人類学でいうところの「文化の伝播」(trans-cultural diffusion)によって文字という「概念」が伝えられ、島の人々が独自の文字体系を発明するきっかけとなった、と主張しているのである。この仮説が正しいならば、ロンゴロンゴは100年足らずの期間に、急速に出現、発展、衰退、忘却されたことになる。そのような文字の伝播の例として、英語の新聞の力を見てチェロキー文字を発明したシクウォイアや、キリスト教文献を読んで啓発され、ユピック語の中央アラスカ方言の文字やユグトゥン文字(Yugtun script)を発明したウヤクク(Uyaquk)などが知られている。しかし、いずれも、1回の条約への調印などよりもはるかに大きな文化的接触がきっかけとなっている。初期の探検家達(島には短い期間しか滞在しなかった)にロンゴロンゴが目撃されなかったという事実は、当時はそれが秘匿されていたことを反映しているのかもしれない。ヨーロッパ人による奴隷狩りやそれに続く疫病によってイースター島の社会が崩壊し、ロンゴロンゴの禁制や「タンガタ・ロンゴロンゴ」(tangata rongorongo = ロンゴロンゴを操る人)の力が弱まったため、エイローの時代には文字板が広範囲に流出するようになっていた、とも考えられる。
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