1774年-1798年 マンハイム管弦楽団の音楽監督
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1774年、カンナビヒはマンハイム宮廷管弦楽団の音楽監督となり、コンサートマスターとして楽団を導くのみならず、「宮廷バレエ長 Maître de Danse」のエティエンヌ・ラウシェリー(Etienne Lauchery)が振付を行っていた宮廷バレエ団のためにバレエ音楽を作曲した。4年後の1778年、彼は主人であったカール・テオドールがバイエルン州選帝侯となるのを機に、彼についてミュンヘンへと移った。ミュンヘンへ拠点を移してからもカンナビヒは以前と変わらず職務をこなしていたが、マンハイムの管弦楽団が最も輝いていた時期は既に過ぎ去ってしまっていたのである。 1780年代に選帝侯はオーケストラ予算を削減するとともに、音楽家の人数を95人から55人へと切り詰めた。楽団員らは支払の減少と給与の減額に不平を唱えた。同様に、人生の最後をこれまでの3分の1の俸給で暮らしていくよう指示を受けた老齢のカンナビヒは、資金を得るために演奏旅行を敢行することになる。これはより恵まれない音楽家であれば生涯を通じて行っていることであるが、カンナビヒにとってはおそらく人生で初めてであったと思われる。 1798年、息子のカールを訪ねてフランクフルト・アム・マインを訪れたカンナビヒは、その地で客死した。
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