1775年 - 1776年 中立勢力と小さな抗争
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「西部戦線 (アメリカ独立戦争)」の記事における「1775年 - 1776年 中立勢力と小さな抗争」の解説
独立戦争の開戦当初、イギリスも13植民地の大陸会議も西部の北米インディアンを戦争の局外に置こうとしていた。1775年10月、ピット砦でアメリカ植民地とインディアンの指導者達が会合し、その前年のダンモアの戦争で作られた境界線を確認し合った。イギリスの支援がないままに、ショーニー族のチーフ・ブラックフィッシュやミンゴ族のプラッギーといった酋長達がケンタッキーに侵攻し、入植者達を追い払おうとした。バージニア植民地の知事パトリック・ヘンリーは、オハイオのプラッギーの集落を攻撃することで報復措置を取ろうとしたが、バージニアの民兵が中立のインディアンも敵対的なインディアンも見分けが付かないために、中立であるデラウェア族やショーニー族を敵に回してしまう事態を恐れ、遠征を思いとどまった。それにも関わらず、デラウェア族やショーニー族は戦いに参加するかしないかのどちらかに別れていった。デラウェア族のホワイトアイやショーニー族のコーンズトークは中立を守り、デラウェア族のバッコンガヘラズやショーニー族のブルージャケットはアメリカ植民地に敵対することになった。 ケンタッキーでは孤立した開拓者や猟師がしばしば攻撃の目標にされ、多くは東部に戻らざるを得なくなった。1776年の春には、200名足らずの植民地人がケンタッキーに残っており、要塞化された開拓地であるブーンズボロ、ハロズバーグ、ローガン基地に入っていた。1776年12月、プラッギーがマクレランズ・ステーション、現在のジョージタウンへの攻撃で戦死した。
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