1775年–1858年
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「チェンバーズバーグ (ペンシルベニア州)」の記事における「1775年–1858年」の解説
1775年6月、レキシントン・コンコードの戦いから間もなく、地元の兵隊がベンジャミン・チェンバーズの長男、ジェイムズ・チェンバーズ大尉の指揮下にアメリカ独立戦争でイギリス軍と戦うために、ペンシルベニア第1連隊の一部として立ちあげられた。これらの兵士はボストン包囲戦に加わった最初のニューイングランド人ではない者となり、1775年8月7日にボストンに到着した。ジェイムズ・チェンバーズはこの戦争の7年間戦い、1776年9月26日には大陸軍の大佐まで昇進した。その弟達、ウィリアムとベンジャミン・ジュニアの2人は、それぞれ戦争の多くで従軍し、大尉に昇進した。ジェイムズ・チェンバーズはロングアイランドの戦い、ホワイト・プレインズの戦い、トレントンの戦い、プリンストンの戦い、ブランディワインの戦い、ジャーマンタウンの戦い、モンマスの戦いでペンシルベニアの部隊を指揮した。ブルックリンから退却するときには殿軍に加わり、ブランディワインの戦いでは、クヌプハウゼン将軍指揮下のドイツ傭兵部隊と対峙しているときに負傷した。 ウィスキー税反乱のとき、地元市民は反乱を支持する姿勢を見せるために自由の柱を立て、反乱を鎮めるための兵士の徴兵に抗議した。それでもこれらの市民はタウンミーティングで非難され、翌日には自由の柱も除去された。ジョージ・ワシントン大統領は反乱に対してアメリカ陸軍を率いているときに、カーライルからベドフォードに向かう途中で町を通り、1794年10月12日の一夜を過ごした。伝説に拠れば、ワシントンは独立戦争のときにペンシルベニアの部隊にいた軍医のロバート・ジョンソン博士の家に泊まったことになっている。この行軍は、現職のアメリカ合衆国大統領が自ら野戦で軍隊を率いたことで、これまで2回しかなかった機会の1つである。もう1つの機会とは、米英戦争のときにイギリス軍がワシントンD.C.を占領し、ジェームズ・マディソン大統領が逃げ出した後のことだった。ワシントンはヘンリー・"ライトホース・ハリー"・リー将軍の指揮でベドフォードからピッツバーグに向けて軍隊を派遣した後、10月21日から26日の間にチェンバーズバーグを通って戻った。ジェイムズ・チェンバーズはこのウィスキー税反乱の時に民兵隊の准将に指名された。 チェンバーズバーグは1803年3月21日に法人化され、州議会が正式な政府を樹立したときに郡庁所在地と宣言された。初代の郡庁舎は1784年にダイアモンド(町の広場)にあるジャックの酒場だった。恒久的な郡庁舎が1793年に建てられ、初代郡監獄は1795年に建設された。「旧監獄」は1818年に建てられ、1864年の火事も生き延び、ペンシルベニア州では最古の監獄舎となっている。元々は保安官の宿舎として使われ、1971年まで現役だったので、州内でも最も長く連続して使われた獄舎となった。今日、旧監獄は博物館となり、フランクリン郡キトックティニー歴史協会が入っている。郡の絞首台が今もその庭に残っている。 チェンバーズバーグの町が成長したのは、まずピッツバーグに至るフォーブス道路の出発点として交通の中心と言う位置づけにあったことに大きく負うていた。1803年、アメリカ合衆国議会がチェンバーズバーグをフィラデルフィア・ピッツバーグ郵便道路に置いた。この道路は1811年にチェンバーズバーグ・ベドフォード・ターンパイクとして再建された。カンバーランド・バレー道路が1837年に建設され、それから100年間近くも地域の経済活動の中心となった。ペンシルバニア鉄道の本線が1857年に完成するまで、ピッツバーグからフィラデルフィアに至る最速のルートはピッツバーグからチェンバーズバーグまで駅馬車で行き、それからフィラデルフィアまで列車に乗り換える方法だった。
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