1776年から1837年
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「ミシガン州の歴史」の記事における「1776年から1837年」の解説
アメリカ独立戦争の間、この地域のヨーロッパ人は主に独立を支持するアメリカの植民地人であり、イギリスに反抗した。イギリスは、地元の先住民族の助けを得て、1776年からこの地域のアメリカ人開拓地を攻撃し、デトロイトを占領した。1781年、アメリカの同盟国となったスペインの軍隊がスペイン領ルイジアナから川や陸地を伝ってこの地に達し、イギリスが保持していたセントジョセフを開放し、その後に開拓地に関する主権をアメリカに渡した。独立戦争は1783年のパリ条約の調印で終わり、ミシガンは新生なったアメリカ合衆国の支配下となった。1787年、この地域は北西部領土の一部となった。しかし、イギリスはデトロイトや他の砦の占領を続け、1796年のジェイ条約発効後まで頑としてこの地域から去らなかった。 ミシガンは1800年にインディアナ準州の一部とされ、1805年にはロウアー半島の全てを含む地域がミシガン準州と宣言された。米英戦争の間、カナダからのイギリス軍が早期にデトロイトとマキナック砦を占領して戦略的利点を取り、先住民族には合衆国に対する反抗を奨励した。アメリカ軍は1813年にデトロイトを取り戻し、マキナック砦は1815年に戦争が終わったときにアメリカに返還された。 1810年代を通じて、先住民族のオジブワ族、オタワ族およびポタワトミ族は徐々に白人開拓者に対する抵抗を決断し、アメリカ合衆国政府に対抗するイギリスの側に付いた。戦闘で決定的に敗北した後で、サギノー条約およびシカゴ条約で彼らの土地の領有権全てをアメリカ政府に売却することを強いられた。1821年までにこれら種族の人々の大半はミシガンを出て、さらに西にあるインディアン居留地に移住させられた。 1820年代、ミシガン準州の人口は急速に成長した。これには1825年のエリー運河の開通が大きく寄与しており、五大湖の中央部と大西洋を航行可能な水路で繋いで、東部州と人口の少ない西部の領土との間の交通速度を上げた。 開拓の促進がミシガン準州を今日の州へ昇格させることを速めた。1835年、連邦政府はミシガン州を創設する法を認めた。トレド市を含む帯状の土地トレド・ストリップを巡ってオハイオ州と領土紛争があったことで、最終的な州昇格は遅れた。論議があった地帯は合衆国議会で成立し、アンドリュー・ジャクソン大統領の署名で法となった改訂議案の命令によりオハイオ州の一部となり、ミシガン州にはアッパー半島の支配という形で補償があった。1837年1月26日、ミシガンは合衆国26番目の州になった。
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