1777年の作戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/04 15:05 UTC 版)
「ヘンリー・クリントン」の記事における「1777年の作戦」の解説
詳細は「フィラデルフィア方面作戦」および「サラトガ方面作戦」を参照 1777年1月、クリントンは休暇を与えられてイングランドに戻った。1777年の行動シーズンに向けた作戦には、フィラデルフィアに対するものと、モントリオールからシャンプレーン湖を経由してオールバニに至り、ニューイングランド植民地を2つに分けてしまうという2つの作戦があった。ハウ将軍がフィラデルフィア方面作戦の指揮を執ることになるので、クリントンはバーゴインと共に北の方面作戦指揮官職を争うことになった。ハウはクリントンを支持したが、バーゴインが国王ジョージ3世とジョージ・ジャーメイン卿を説得して、その指揮を認めさせた。国王はクリントンの辞任要請を拒否し、ニューヨークに戻って再びハウの副司令官として務めるよう命じた。クリントンはナイトに叙せられて宥められたが、チャールストンでの悲惨な結末を公表することは禁じられた。4月11日に正式にバス勲章を授けられ、4月29日にニューヨークに向けて旅立った。 7月にクリントンがニューヨークに到着したとき、ハウはまだフィラデルフィアに向けて出航していなかった。クリントンは自身が7,000名の兵士と共にニューヨークに残されることを知って驚愕し、動揺した。それらの兵士はロイヤリスト民兵が大半であり、他にはドイツ人傭兵で、ニューヨークを守るという任務には不適切と考えた。またハウの作戦における欠陥をはっきりとハウに告げた。その作戦ではバーゴイン軍がハウによってもクリントンによっても適切な支援を得られるチャンスが無く孤立させてしまうと考えられた。クリントンは、ワシントン軍の大半がニューヨーク地域を離れたことを知った後に「バーゴインにとって重荷になることを恐れる。...この作戦で戦争を終わらせることができなければ、イギリスによるアメリカ支配が終わることになると予言する」と前もって記していた。 バーゴインのサラトガ方面作戦は悲惨な結末になった。バーゴイン軍の侵攻はサラトガで停止させられ、その後直ぐに包囲された。クリントンはバーゴイン軍を支援しようとしたが、ヨーロッパからの援軍到着が遅れたためにその動きが遅れた。10月初旬、クリントンはハドソン川沿岸高地にあるクリントン砦とモントゴメリー砦の2つを占領し、さらにオールバニに向けて部隊を派遣した。しかしこの動きはあまりに小規模で、かつ遅すぎた。さらにハウから援軍を要請する命令を受けたために中断された。ハウのフィラデルフィア方面作戦は成功したが、ジャーマンタウンの戦いでは敗北を喫する寸前までいっていた。 クリントンはニューヨーク地域の指揮官としてある程度の饗応もする必要があった。その費用にはいらいらさせられながらも遂行していた。このときバッドリー夫妻が加わった。メアリー・バッドリーが家政婦としての役割を行い、その優れた管理術のゆえにクリントンは喜んでいた。メアリーはその夫が彼女を欺していることが分かるまでクリントンのロマンティックな提案を拒絶していた。クリントンはその夫のためにロイヤリスト連隊における役職を購入し、ニューヨークから転出させようとしたが失敗した。
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