1776年の作戦
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「ヘンリー・クリントン」の記事における「1776年の作戦」の解説
詳細は「サリバン島の戦い」および「ニューヨーク・ニュージャージー方面作戦」を参照 クリントンのカロライナ遠征では2月にこの作戦のためにヨーロッパから送られた援軍と落ち合うことが予定されていた。その部隊は兵站と天候のために到着が遅延し、ノースカロライナの海岸沖に到着したのは5月になってからだった。この部隊にはクリントンの副指揮官となるチャールズ・コーンウォリス将軍と海軍のピーター・パーカー提督が入っていた。彼らはノースカロライナが作戦を行うには良い基地にならないと判断し、まだ防御工事が完成していないという報告があったサウスカロライナのチャールストンを襲撃することに決めた。6月下旬に始めたサリバン島の攻撃は屈辱的な失敗になった。クリントンの部隊は植民地軍が主たる防御陣地にしているサリバン島に近い島に上陸した。その2つの島の間の海峡は干潮時に歩いて渉れるもの考えていた。実際にはその渡渉が不可能であり、攻撃は海軍による砲撃のみになった。サリバン島の砦は多孔質のパルメット・ヤシの木材を使って建設されており、砲弾の威力を吸収して裂けも割れもしなかったので、艦砲射撃も無効だった。 クリントンとパーカーの船隊は、ハウ将軍の主力艦隊と合流し、8月のニューヨーク攻撃に加わった。クリントンは次々と攻撃のアイディアを出してハウに提案をしたが、総司令官のハウはこれを不満に思うようになった。それでもクリントンがブルックリンにいるジョージ・ワシントンの陣地を攻撃する作戦を提案すると、ハウはこれを採用した。8月27日のロングアイランドの戦いでは、クリントンが提案した作戦に従って、ハウとクリントンが指揮したイギリス軍が大陸軍前衛の側面を衝き、ブルックリンハイツの砦にまで押し返すことに成功した。しかしクリントンがその勝利の余勢をかって塹壕に入った大陸軍を攻撃することを勧めたときにはハウが拒否した。ハウは敵の勢力に関する情報が無いことと、自軍の損失を最小にしておきたいと考えたからだった。ハウは大陸軍陣地の包囲を選び、大陸軍は8月29日に損失も出さずに砦を脱出した。ハウはこの戦勝でナイトに叙された。 ハウはその後ニューヨーク市の支配に動き、マンハッタンのキップス湾に上陸したが、これをクリントンが再度指揮した。クリントンはワシントン軍を孤立させる動きを提案したが、ハウはこれを拒絶した。10月、ワシントン軍をハドソン川とブロンクス川の間に閉じ込めることを目指して、クリントンはウェストチェスター郡の岸に軍を進めた。しかし、クリントン軍が到着する以前にワシントン軍がホワイトプレインズに到着していた。そこでの短時間の戦闘後、ワシントン軍は北に後退し、一方ハウは南に向かってマンハッタンの支配を確実なものにした。この時点までにハウとクリントンの関係はほとんど完全に壊れていた。これはクリントンが常に批判と提案を行い続け、ハウが軍の進軍経路を少しでも変えることを認めようとしなかったことでさらにこじれた。 11月にハウはクリントンに6,000名の兵士を付けてロードアイランドのニューポートを占領させる遠征の準備を始めるよう命じた。そこはイギリス海軍の港として必要だった。ハウがコーンウォリスをワシントン軍追撃のためにニュージャージーに派遣したとき、クリントンはニューポートを占領するよりも、ニュージャージーに部隊を上陸させてワシントン軍を包囲すべきだと提案した。ハウはこの忠告を拒絶し、クリントンは12月初旬にニューポートに渡り、抵抗もほとんど無いままにそこを占領した。
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