1780年 イギリス軍とインディアンの攻勢
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「西部戦線 (アメリカ独立戦争)」の記事における「1780年 イギリス軍とインディアンの攻勢」の解説
次の数年間、両陣営ともに入植地を攻撃目標にした戦いを繰り返した。1780年、何百人ものケンタッキー入植者が、イギリス・インディアン連合によるケンタッキー遠征で殺され捕虜にされた。1780年8月、ジョージ・ロジャース・クラーク率いる遠征隊が、マッド川沿いの2つのショーニー族集落を破壊したが、戦況を変えるまでには至らなかった。 5月下旬、スペインが領有していたセントルイスが、大半はインディアンで構成されるイギリス軍に攻撃されたが、スペイン人とフランス人クレオールからなる混成部隊でうまく防ぐことができた(セントルイスの戦い)。セントルイスの現在の中心街にある石造りの塔、サンカルロス砦がこの防御の中心だった。 イリノイではフランス人士官オーガスタン・ド・ラ・バルメが、デトロイト砦攻略のためにフランス人住人による民兵隊を招集した。この部隊は11月にマイアミ族酋長リトルタートルの部隊に打ち破られた。これと同じ時にほとんど打ち捨てられていたセントジョセフ砦がカホキアから来たアメリカ人に襲撃された。しかしこのアメリカ人隊はその帰路のプティ砦近くでイギリス王党派とインディアンたちに襲われた。
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