1782年 流血の年とは? わかりやすく解説

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1782年 流血の年

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/22 11:38 UTC 版)

西部戦線 (アメリカ独立戦争)」の記事における「1782年 流血の年」の解説

詳細は「クロウフォード遠征」を参照 1782年3月、デイビッド・ウィリアムソン中佐指揮下の160名のペンシルベニア民兵オハイオ地方入りペンシルベニア開拓者達を襲い続けているインディアン戦士を見つけようとした。インディアンによる白人女性やその赤ん坊陰惨な殺戮怒り覚えていたウィリアムソン部隊は、グナデンヒュッテンので約100人のキリスト教デラウェア族拘束したキリスト教デラウェア族捕虜収容所からグナデンヒュッテンに戻り残していた穀物の収穫行おうとしていた。ペンシルベニア民兵キリスト教デラウェア族開拓者達を襲い続けているインディアン助けていたとして、ほとんど婦女子ばかり100名をハンマーで頭を割って殺してしまった。 次に引退していたウィリアム・クロウフォード大佐大部分ペンシルベニア出身志願民兵480名を引き連れインディアン急襲することを目的北米インディアン領地深く進入した。しかし、インディアンデトロイトイギリス同盟軍は、前もってこの遠征のことを知っており、アメリカ植民地軍に対抗するために約440名をサンダスキー川に派遣した戦闘1日間だけ行われ決着はつかなかったが、アメリカ植民地軍は包囲されていることを悟り退却試みた。その退却壊走変わったが、多くの者が何とかしてペンシルベニア戻った結局70名のアメリカ植民地軍が殺されイギリス軍インディアン被害最小だった(クロウフォード遠征)。 この退却最中クロウフォード多く彼の配下の者が捕虜になったインディアンは、その年の前半にあったグナデンヒュッテンの虐殺で約100名の非戦闘員ペンシルベニア民兵殺されたことに対す報復としてこれら捕虜多く処刑したクロウフォードの処刑は特に残酷だった。彼は少なくとも2時間拷問された後に火炙りにされた。 クロウフォード遠征隊の失敗アメリカ開拓者の間に警鐘鳴らした。彼らはインディアンがその勝利によって大胆となり新たな攻撃をするのではないか恐れたアメリカ人にとってこれ以上敗北その後無かったのだが、アパラチア山脈以西開拓者達にとって、1782年は「流血の年」と呼ばれることになった1782年7月13日ミンゴ族の酋長グヤスタが約100名のインディアンイギリス人志願兵引き連れてペンシルベニア侵入し、ハンナズタウンを破壊し開拓者9名を殺害12名を捕虜にした。これは西部ペンシルベニア独立戦争中起こったインディアンによる最大惨事だった。 ケンタッキーでは、イギリス側コールドウェルエリオットマッキーインディアン達と大きな攻勢をかける準備をしていたのに対しアメリカ植民地側も防御固めた1782年3月エスティル砦がワイアンドット族インディアン攻撃された。この地域指揮官ローガン基地駐屯していたベンジャミン・ローガン大佐は、ワイアンドット族戦士達がこの地域では喧嘩腰であることを知ったデトロイトイギリス軍援助されていたインディアン達はケンタッキー川沿いエスティル基地過ぎたブーンズボロから襲撃していた。ローガンエスティル基地にいるエスティル大尉のもとに15名の兵士派遣し、その部隊をさらに25増強して、その北と東を偵察しろという命令持たせたエスティル大尉はこの命令従い、ステーションキャンプ・クリークの河口から数マイル下流ケンタッキー川に到着しその夜はスウィートリック、現在のエスティルスプリングスと呼ばれる所に宿営した。彼らがエスティル基地出発した1日後の3月20日夜明けに1隊のインディアン現れ、砦を襲撃して砦から見えるところでアイネス嬢の頭皮を剥いで殺しエスティル大尉奴隷であるモンク捕まえ、牛を全て殺したインディアン達が退却するや否や、サミュエル・サウスとピーター・ハケットという2人若者エスティル隊に追いついてこの出来事報せるよう派遣された。彼らは3月21日早朝にドローイング・クリークとレッド川河口近く部隊見つけた。砦の40名の兵士の中で、約20名は砦に家族残していた。彼らは2人若者と共にエスティル基地戻った残り兵士達ケンタッキー川を渉り、インディアン足跡見つけたエスティル大尉25名の中隊編成しインディアンの跡を付けたが、3月22日、後にリトルマウンテンの戦い呼ばれるもので、敗北喫した7月、1,000名以上のインディアンがワパトミカに集結したが、クラークケンタッキーからオハイオ侵略する準備をしているとの斥候知らせ接し遠征中止された。この知らせは後に嘘だと分かったが、コールドウェルやりくりした300名のインディアン引き連れてケンタッキー侵入し8月ブルーリックスの戦い壊滅的な打撃与えたアメリカ合衆国イギリス停戦協議進めていたので、コールドウェルそれ以上攻撃を行うことを止めさせられた。同様に大陸軍アービン将軍オハイオへの遠征許可得ていたが、これもキャンセルされた。11月クラークオハイオ最後の攻撃行いいくつかのショーニー族集落破壊したが、住人大きな被害は出なかった。

※この「1782年 流血の年」の解説は、「西部戦線 (アメリカ独立戦争)」の解説の一部です。
「1782年 流血の年」を含む「西部戦線 (アメリカ独立戦争)」の記事については、「西部戦線 (アメリカ独立戦争)」の概要を参照ください。

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