1782年 流血の年
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「西部戦線 (アメリカ独立戦争)」の記事における「1782年 流血の年」の解説
詳細は「クロウフォード遠征」を参照 1782年3月、デイビッド・ウィリアムソン中佐指揮下の160名のペンシルベニア民兵がオハイオ地方に入り、ペンシルベニア開拓者達を襲い続けているインディアンの戦士を見つけようとした。インディアンによる白人女性やその赤ん坊の陰惨な殺戮に怒りを覚えていたウィリアムソンの部隊は、グナデンヒュッテンの村で約100人のキリスト教デラウェア族を拘束した。キリスト教デラウェア族は捕虜収容所からグナデンヒュッテンに戻り、残していた穀物の収穫を行おうとしていた。ペンシルベニア民兵はキリスト教デラウェア族が開拓者達を襲い続けているインディアンを助けていたとして、ほとんど婦女子ばかり100名をハンマーで頭を割って殺してしまった。 次に、引退していたウィリアム・クロウフォード大佐が大部分ペンシルベニア出身の志願民兵480名を引き連れ、インディアンを急襲することを目的に北米インディアンの領地深く進入した。しかし、インディアンとデトロイトのイギリスの同盟軍は、前もってこの遠征のことを知っており、アメリカ植民地軍に対抗するために約440名をサンダスキー川に派遣した。戦闘が1日間だけ行われ決着はつかなかったが、アメリカ植民地軍は包囲されていることを悟り、退却を試みた。その退却は壊走に変わったが、多くの者が何とかしてペンシルベニアに戻った。結局70名のアメリカ植民地軍が殺され、イギリス軍もインディアンも被害は最小だった(クロウフォード遠征)。 この退却の最中にクロウフォードと多くの彼の配下の者が捕虜になった。インディアンは、その年の前半にあったグナデンヒュッテンの虐殺で約100名の非戦闘員がペンシルベニア民兵に殺されたことに対する報復としてこれら捕虜の多くを処刑した。クロウフォードの処刑は特に残酷だった。彼は少なくとも2時間拷問された後に火炙りにされた。 クロウフォード遠征隊の失敗はアメリカ開拓者の間に警鐘を鳴らした。彼らはインディアンがその勝利によって大胆となり新たな攻撃をするのではないかと恐れた。アメリカ人にとってこれ以上の敗北はその後も無かったのだが、アパラチア山脈以西の開拓者達にとって、1782年は「流血の年」と呼ばれることになった。1782年7月13日、ミンゴ族の酋長グヤスタが約100名のインディアンとイギリス人の志願兵を引き連れてペンシルベニアに侵入し、ハンナズタウンを破壊し、開拓者9名を殺害12名を捕虜にした。これは西部ペンシルベニアで独立戦争中に起こったインディアンによる最大の惨事だった。 ケンタッキーでは、イギリス側のコールドウェル、エリオット、マッキーがインディアン達と大きな攻勢をかける準備をしていたのに対し、アメリカ植民地側も防御を固めた。1782年3月、エスティル砦がワイアンドット族インディアンに攻撃された。この地域の指揮官でローガン基地に駐屯していたベンジャミン・ローガン大佐は、ワイアンドット族戦士達がこの地域では喧嘩腰であることを知った。デトロイトのイギリス軍に援助されていたインディアン達はケンタッキー川沿いにエスティルの基地を過ぎたブーンズボロから襲撃していた。ローガンはエスティル基地にいるエスティル大尉のもとに15名の兵士を派遣し、その部隊をさらに25名増強して、その北と東を偵察しろという命令を持たせた。エスティル大尉はこの命令に従い、ステーションキャンプ・クリークの河口から数マイル下流でケンタッキー川に到着し、その夜はスウィートリック、現在のエスティルスプリングスと呼ばれる所に宿営した。彼らがエスティル基地を出発した1日後の3月20日夜明けに1隊のインディアンが現れ、砦を襲撃して砦から見えるところでアイネス嬢の頭皮を剥いで殺し、エスティル大尉の奴隷であるモンクを捕まえ、牛を全て殺した。インディアン達が退却するや否や、サミュエル・サウスとピーター・ハケットという2人の若者がエスティル隊に追いついてこの出来事を報せるよう派遣された。彼らは3月21日早朝にドローイング・クリークとレッド川の河口近くで部隊を見つけた。砦の40名の兵士の中で、約20名は砦に家族を残していた。彼らは2人の若者と共にエスティル基地に戻った。残りの兵士達はケンタッキー川を渉り、インディアンの足跡を見つけた。エスティル大尉は25名の中隊を編成し、インディアンの跡を付けたが、3月22日、後にリトルマウンテンの戦いと呼ばれるもので、敗北を喫した。 7月、1,000名以上のインディアンがワパトミカに集結したが、クラークがケンタッキーからオハイオを侵略する準備をしているとの斥候の知らせに接し、遠征は中止された。この知らせは後に嘘だと分かったが、コールドウェルはやりくりした300名のインディアンを引き連れてケンタッキーに侵入し、8月のブルーリックスの戦いで壊滅的な打撃を与えた。アメリカ合衆国とイギリスが停戦協議を進めていたので、コールドウェルはそれ以上の攻撃を行うことを止めさせられた。同様に、大陸軍のアービン将軍がオハイオへの遠征の許可を得ていたが、これもキャンセルされた。11月にクラークがオハイオに最後の攻撃を行い、いくつかのショーニー族の集落を破壊したが、住人に大きな被害は出なかった。
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