クロウフォードの処刑
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/03/31 05:05 UTC 版)
「クロウフォード遠征」の記事における「クロウフォードの処刑」の解説
クロウフォードとナイトは6月7日にウィンゲナンドのキャンプに連れて行かれた。そこには他に9名の捕虜が居た。6月11日、キャプテン・パイプは捕虜の顔を黒に塗らせた。これは捕虜を処刑する伝統的な印だった。捕虜達はティモクテー・クリーク沿いのデラウェア族集落、現在のオハイオ州クロウフォード村に移動した。その道中、4名の捕虜はトマホークで殺され、頭皮を剥がれた。戦士たちが停止すると、残っていた7名の捕虜は座らされ、クロウフォードとナイトは他の5名と離れた位置に置かれた。デラウェア族の婦女子が他の5名をトマホークで殺害し、そのうちの一人の首をはねた。少年達はクロウフォードとナイトの目の前で犠牲者の頭皮を剥ぎ、血に塗れた頭皮を叩いた。 デラウェア族集落にはアメリカ軍指揮官の処刑を見るために約100人の男、女および子供達が集まっていた。ダンカットとワイアンドット族数人も出席していた。またサイモン・ガーティやマシュー・エリオットも居た。キャプテン・パイプはクロウフォードを1778年のピット砦条約のときから知っており、群集に向かってクロウフォードはグナーデンヒュッテンの殺害を実行した多くの者達を指揮している時に捕獲されたと告げた。クロウフォード自身は虐殺に関わっていなかったが、キャプテン・パイプの縁戚数人が殺された「女々しい攻撃隊」には参加していた。キャプテン・パイプは明らかにこのことを言っていた。 キャプテン・パイプの演説後、クロウフォードは裸にされて殴られた。その両手は後手に縛られ、その縄は地上に立つ柱に括り付けられた。柱から約6ないし7ヤード (約6 m) に大きな焚き火が点けられた。インディアンの男達がクロウフォードの体に弾薬を撃ちこみ、両耳を切り取った。クロウフォードは焚き火から持ってきた薪で炙られ、熱い石炭を投げつけられ、その上を歩かされた。クロウフォードはガーティに射殺してくれるよう懇願したが、ガーティは干渉することに気が進まず、あるいはそうすることを恐れていた。約2時間の拷問後クロウフォードは気絶した。クロウフォードの頭皮が剥がされ、一人の女が熱い石炭をその頭に注ぐと、クロウフォードは意識を取り戻した。拷問が続く間、無意識のまま歩き周り始めた。クロウフォードが遂に死ぬと、その遺骸は燃やされた。 その翌日、ナイトは処刑されることになっているショーニー族の集落に連れて行かれた。その途中で、ナイトは丸太で護衛を打ち倒し、なんとか逃げ延びることができた。ナイトは徒歩でペンシルベニアまで戻ることに成功した。7月4日にある猟師たちがナイトを発見したときまでに、健康を害し、ほとんど明確に話すこともできなかった。猟師たちはナイトをマッキントッシュ砦まで連れ帰った。
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