ハウの作戦の変遷
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/12 14:42 UTC 版)
「フィラデルフィア方面作戦」の記事における「ハウの作戦の変遷」の解説
ワシントンは、ハウが「確かにバーゴイン将軍との共同作戦に関わるという良い政策につくはず」と認識しており、なぜハウがそうしなかったか疑問に思った。当時のワシントンと歴史家達は、カナダからの侵略軍を率いたジョン・バーゴイン将軍が10月に大陸軍に包囲され捕獲されるのに対し、ハウが救援できる位置にいなかった理由について、その後常に思案してきた。歴史家達はジャーメイン卿が2つの作戦を協調させることに失敗したということについては意見が一致している。ハウがニューヨークを占領し、ワシントンがデラウェア川を渡って撤退した後、1776年12月20日にハウはジャーメイン卿に宛てて、1777年の作戦には念入りな組み合わせを提案する手紙を送っていた。これにはロードアイランドのニューポートにある基地からの作戦を拡張してハドソン川の支配権を取り、さらに反乱軍の首都をフィラデルフィアを占領する作戦が含まれていた。当時ワシントン軍はフィラデルフィア市の北側にいたので、ハウはフィラデルフィアの占領を魅力的なものと考え、「敵の主力がいる所に(フィラデルフィアに対して)自軍の主力を攻撃的に動かすべきと考える」と記していた。ジャーメインはこの作戦が特に「良くこなれている」ことを認識したが、ジャーメインが準備しようとしていた以上の兵力を必要ともしていた。ハウはニュージャージーで挫折した後の1777年1月半ばに、陸路の遠征と海上からの攻撃を含むフィラデルフィアに対する作戦を提案し、これによって大陸軍に対する決定的な勝利を得られるものと考えていた。この作戦には4月にハウ軍が舟橋を建設するというところまで発展しており、モリスタウンに宿営していたワシントンはこれがデラウェア川で使われるものと考えた。しかし5月半ばになってハウは陸路を進む考えを放棄し、「海上からペンシルベニアに侵攻することを提案する...おそらくジャージーは放棄しなければならない」と考えていた。 ハウがバーゴインを支援しないと決断したのは、ハウの援助を必要としたとしてもバーゴインが成功した場合に、その栄誉はバーゴイン一人に行くと認識したことに基づいている可能性があった。バーゴインが成功すれば、ハウがフィラデルフィア方面作戦に成功したとしてもその名声は上がらなかったであろう。歴史家のジョン・アルデンはイギリス軍指導層の間の嫉妬について触れ、「ハウはバーゴインがハウのことを嫉視したようにバーゴインのことを嫉視しており、その若い将官が軍隊の名声の梯子を上ることを助けるようなことは何もしたいと思わなかった可能性がある」と言っている。歴史家のドン・ヒギンボザムは同様な見解であり、「(ハドソン川作戦は)バーゴインの見せ場であり、その結果ハウはそれに関わりたくなかった。バーゴイン軍に関連して、ハウは求められていることのみを(事実上何もしないこと)やろうとした」と結論付けている。ハウ自身が7月17日にバーゴインに宛てて、「私の意図はペンシルベニアにあり、そこでワシントンに会おうと思うが、予測に反してワシントンが北に行き、貴方が彼を追い詰めることができた場合、私は貴方を救うために彼の後を追うことを約束する」と書いていた。ハウはその後間もなくニューヨーク港を出帆した。
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