フィラデルフィアの占領
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/12 14:42 UTC 版)
「フィラデルフィア方面作戦」の記事における「フィラデルフィアの占領」の解説
ハウはその15,000名の軍隊を緩り移動させ、8月下旬にフィラデルフィアからは約55マイル (90 km) 南西のチェサピーク湾北端に上陸させた。ワシントン将軍はハウ軍とフィラデルフィアの間に11,000名の軍隊を配置させたが、1777年9月1日のブランディワインの戦いで側面を衝かれ後退させられた。 大陸会議は再びフィラデルフィア市を放棄し(大陸会議は1776年末にボルティモアに移ったことがあった)、ランカスターに急行して、さらに後にはヨークに政府を移した。イギリス軍と大陸軍はその後の数日間、中断されたクラウズの戦いやいわゆるパオリの虐殺など小さな衝突をして互いを牽制しあった。9月26日、ハウは遂にワシントンを出し抜き、フィラデルフィアを無抵抗で占領した。しかしイギリス軍が想定していたように反乱軍の首都を占領することで「反乱」を終わらせることはできなかった。18世紀の戦争では、敵の首都を占領した側が戦争に勝利したことになるのが常識だった。しかし、この戦争は1783年までさらに6年間続くことになった。 イギリス軍はフィラデルフィアを占領した後、約9,000名の守備隊が、フィラデルフィアから5マイル (8 km) 北のジャーマンタウンに駐屯した。10月4日、ワシントンはジャーマンタウンを攻撃したものの成功せず、撤退して模様眺めとなった。一方、イギリス軍は11月にミフリン砦とマーサー砦を奪うことでデラウェア川を支配下に置いた。12月初旬、ワシントンはホワイトマーシュの戦いでイギリス軍の攻撃を撃退することに成功した。 当時のワシントン将軍にとっての問題は当面のイギリス軍に対することだけではなかった。いわゆるコンウェイ陰謀で、総司令官としてのワシントンの最近の業績に不満だった政治家や士官のある者達が、密かにワシントンの更迭を策謀していた。ワシントンは陰での動きに機嫌を損ね、事態をすべて大陸会議の場で公にした。ワシントンの支持者達が彼の背中を押し、この陰謀は沙汰止みとなった。
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