フィラデルフィアでの指揮
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/05 06:44 UTC 版)
「ベネディクト・アーノルド」の記事における「フィラデルフィアでの指揮」の解説
1778年6月、フィラデルフィアからイギリス軍が撤退し、ワシントンはアーノルドをその町の軍事指揮官に任命した。この頃、アーノルドはフランスとアメリカの同盟を知った。フレンチ・インディアン戦争での苦い経験があったので、かれはこの同盟に強く反対した。皮肉にもフランス王ルイ16世をしてアメリカと同盟を結び戦争に協力することに同意させた契機は、アーノルドが決定的な役割を演じたサラトガの勝利だった。 アメリカ軍がフィラデルフィアを取り戻す前であっても、アーノルドはそこの支配権の変化を財政的に利用する計画を始めていた。戦争に関連する物資の動きから利益を生み出すように考えた様々な取引に関わり、その権限の下で恩恵に与ろうとした。これらの計画は必ずしも合法ではなく、当時はその倫理が高度に怪しげなものに見られていた。その計画の幾つかは政治力をもっていたジョセフ・リードなど熱狂的な愛国者の行動で妨げられた。これらの商取引は資本を必要とし、アーノルドはそれを借りることが多かった。アーノルドはペンのマンションを借り、上流社会のために繰り返しパーティを開くなど贅沢な暮らしぶりでその負債を増やした。事態を複雑にしたのはアーノルドが比較的強力なペンシルベニア政府と大陸会議の間に管理面で板ばさみになっていたという事実であり、そのことで目的を達する為に人口の多い邦の要求に屈しなければならないことも多かった。リード達はアーノルドの職分における一連のごまかしを聞き込んでおり、アーノルドとリードやその支持者達の間に言葉の戦いが始まった。1789年2月までに、アーノルドが職権を乱用しているという様々な告発が公になされた。5月、アーノルドは「私は国のために尽くしてびっこになっても、こんな感謝の心もない仕打ちを期待していただろうか」とワシントンに書き送って完全な軍法会議を要求した。軍法会議は延期され(1779年12月まで開廷されなかった)、アーノルドは大陸会議の怠慢について再度憤懣が募り怒ることになった。 1778年の夏に、アーノルドはペギー・シッペンと出会った。彼女は、王党派の同調者でイギリス軍がフィラデルフィアを占領しているときに取引を行っていたエドワード・シッペン判事の娘で陽気な18歳だった。ペギーはイギリス軍がフィラデルフィアを占領している間に、イギリス軍の少佐ジョン・アンドレと交際したことがあった。4月8日、アーノルドとペギーは結婚した。ペギーとその交友サークルは戦線をこえて愛人と接触を続ける方法を見つけていた。これは敵との対話を禁じる軍事法を犯していた。この通信の幾つかはフィラデルフィアの商人ジョセフ・スタンスベリーを通じて行われていた。 1779年5月初旬頃、アーノルドはスタンスベリーと会った。スタンスベリーはアーノルドと会った後で、「私は(アーノルドが)ヘンリー・クリントン将軍に仕えるという申出書を持って密かにニューヨークへ行った」と証言した(イギリス軍への証言は明らかに誤ってその日付を6月にしている)。これがアーノルドとクリントン将軍のスパイ主任であるジョン・アンドレ少佐との一連の交渉の始まりとなった。7月から10月に掛けて、二人は何度もアーノルドがイギリス側に寝返ることについて交渉し、アーノルドは軍隊の位置や勢力、さらには物資貯蔵所の位置など情報をイギリス軍に提供した。
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