フィラデルフィア・インターナショナル・レーベルでの成功
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「ハロルド・メルヴィン&ザ・ブルー・ノーツ」の記事における「フィラデルフィア・インターナショナル・レーベルでの成功」の解説
1972年名プロデューサー、ギャンブル&ハフ率いるフィラデルフィア・インターナショナル・レーベルと契約し、グループ名もハロルド・メルヴィン&ザ・ブルー・ノーツとなる。メンバーもメルヴィンとテンダーグラス以外は一新され、バーナード・ウィルソン、ローレンス・ブラウン、ロイド・パークスとの5人体制となった。以後76年までの5年間に、ミリオンセラーを含む数多くのヒットシングル・アルバムが生み出されることとなる。 ブルー・ノーツの最も重要で、且つ商業的な成功も収めた作品には、例えば1972年の「二人の絆(If You Don't Know Me By Now)」 (ビルボードR&Bチャート1位・Hot100チャート3位)、 「I Miss You」(同7位・58位)、73年の「愛の幻想(The Love I Lost)」(同1位・7位)といったラブソングや、ともに75年にリリースされた社会派ソング、「Wake Up Everybody」(同1位・12位)と「Bad Luck」(同4位・15位)などがある。特に「Bad Luck」はビルボードのHot Dance Club Songs Chartでも、11週連続で1位を獲得するなど、ロングラン作品となった。同じ75年にリリースされ、彼らにとって4枚目のR&Bチャート1位シングルとなった「Hope That We Can Be Together Soon」は、前年加入した女性ヴォーカリスト、シャロン・ペイジをフィーチャーしたものである。 1975年のアルバム『Wake Up Everybody』に収録されていた「Don't Leave Me This Way」は、テルマ・ヒューストンのカバー・ヴァージョンが1977年にビルボードHot100チャートで1位となり、その後ハロルド・メルヴィン&ザ・ブルー・ノーツのオリジナル・ヴァージョンもシングルとしてリリースされ、ディスコ・ミュージック全盛期における定番の曲の一つとなった。また、「Wake Up Everybody」のアルバム・ヴァージョンはアメリカではシングル・カットされなかったが、77年にイギリスで発売されるや同国のチャートで5位に入り、結局アメリカでも2年後に12インチシングルとしてリリースされた。彼らはギャンブル&ハフと4枚のアルバムを製作し、それら全てがゴールド・ディスク(50万枚以上)を記録した。その中にはともに75年の「To Be True」(ビルボードアルバムチャート26位)と「Wake Up Everybody」(同9位)が含まれ、さらに翌年発売された「Wake Up Everybody」に主要ヒットナンバーを加えた「コレクターズ・アイテム」と呼ばれるものは、現在までに100万枚以上の売上を記録している。 これらの成功にも関わらず、グループは定期的にメンバー交代が行われていた。74年、メルヴィンはパークスに代わってジェリー・カミングスを加入させ、同時にシャロン・ペイジもメンバーに加わった。シャロンは前述の「Hope That We Can Be Together Soon」など、いくつかの作品でメイン・ヴォーカルを担当している。 まさに絶頂期であった76年、ペンダーグラスが自らのギャランティに対する不満からグループを去った。ペンダーグラスは脱退後、77年から80年までにリリースしたアルバムが全てミリオン・セラーとなるなど、ソロ・シンガーとして大きな成功を収める。その後、1982年の交通事故により、車椅子生活を余儀なくされたが、84年にアルバム『Love Language』で復活を果たし、88年のアルバム『Joy』と同名のシングルも大ヒットした。
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