フィラデルフィア・フィリーズ時代(1972年 - 1986年)
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「スティーブ・カールトン」の記事における「フィラデルフィア・フィリーズ時代(1972年 - 1986年)」の解説
1972年2月25日にリック・ワイズとの交換トレードでフィラデルフィア・フィリーズに移籍。同年は5月に5連敗を喫するが、6月7日から5完封を含む15連勝。いずれもリーグトップの27勝(10敗)、防御率1.97、310奪三振、41先発、30完投、346.1イニング、被安打257を記録し、最多勝・最優秀防御率・最多奪三振の投手三冠を達成。チームは59勝97敗で最下位に終わったが、チーム勝利の46%を1人で挙げた。これは20世紀以降ではMLB最高記録である。サイ・ヤング賞を初受賞し、MVPの投票でも5位に入った。「最高のスポーツ選手」としてヒコック・ベルトを獲得。トレーニングに東洋武術を取り入れるなど、ユニークな肉体管理法も確立する。1973年は293.1イニング、18完投はリーグトップだったものの、20敗、293被安打、127失点はいずれもリーグワーストと一転して不調に陥る。メディアから「奇妙な」トレーニング法について詰問され、その後取材を一切拒否することになる。1974年はリーグワーストの136四球だったが、16勝13敗、防御率3.22、240奪三振の成績で最多奪三振を獲得。1976年は20勝を挙げてチームの地区優勝に貢献。シンシナティ・レッズとのリーグチャンピオンシップシリーズでは第1戦に先発するが、8回途中5失点で敗戦投手となり、チームも3連敗で敗退した。1977年は23勝10敗、防御率2.64を記録して最多勝のタイトルを獲得し、チームは2年連続地区優勝。ロサンゼルス・ドジャースとのリーグチャンピオンシップシリーズでは第1戦に先発し7回途中5失点、第4戦では5回4失点と振るわず、1勝3敗で敗退。オフに2度目のサイ・ヤング賞を受賞。1978年は16勝を挙げ、チームは地区3連覇。前年に続きドジャースと対戦したリーグチャンピオンシップシリーズでは第3戦に先発して4失点完投勝利を挙げるが、チームは1勝3敗で3年連続で敗退した。 1980年は8連勝を記録するなど前半戦だけで14勝を挙げる。24勝9敗、防御率2.34、286奪三振の成績で最多勝・最多奪三振の二冠を獲得、チームの2年ぶり地区優勝の原動力となる。ヒューストン・アストロズとのリーグチャンピオンシップシリーズでは第3戦に先発して7回1失点で勝利投手となり、30年ぶりのリーグ優勝を果たす。カンザスシティ・ロイヤルズとのワールドシリーズでは第2戦に先発し8回を投げ被安打10で6四球ながら、10奪三振4失点で凌ぎ勝利投手。王手をかけて迎えた第6戦では8回途中1失点と好投して勝利投手となり、球団史上初のワールドチャンピオンに大きく貢献した。3度目のサイ・ヤング賞を受賞し、MVPの投票では5位に入る。この年の投球回数304回は2021年現在、MLB最後の300イニングの到達者である。1981年は50日間に及ぶストライキでシーズンが中断・短縮されて前後期制の変則日程となり、中断前首位だったチームは前期優勝。自身は開幕から8連勝を記録し、リーグ2位タイの13勝を挙げる。モントリオール・エクスポズとのディビジョンシリーズでは第1戦と第5戦に先発したが、援護がなく共に敗戦投手となり、チームも2勝3敗で敗退。初のゴールドグラブ賞を受賞した。1982年は開幕から4連敗を喫するなど序盤は不調も次第に調子を上げ、23勝11敗、防御率3.10、286奪三振、いずれもリーグトップの295.2イニング、19完投、6完封を記録し、2年ぶりに最多勝・最多奪三振の二冠を獲得、史上初となる4度目のサイ・ヤング賞を受賞する。1983年は9月23日の古巣カージナルス戦で通算300勝を達成。15勝16敗と負け越すが、リーグトップの283.2イニング、275奪三振で2年連続の最多奪三振。チームは3年ぶりの地区優勝。ドジャースとのリーグチャンピオンシップシリーズでは2試合に先発して2勝、防御率0.66と好投し、リーグ優勝を果たす。ボルチモア・オリオールズとのワールドシリーズでは第3戦に先発したが敗戦投手。チームは本拠地で3連敗を喫し、1勝4敗で敗退した。1984年は13勝7敗、防御率3.58の成績。1985年は防御率2点台と好投しながら援護がなく、1勝しか挙げられず6月に故障で離脱。終盤に復帰したが結局1勝8敗、防御率3.33に終わる。1986年は開幕から不調が続き、通算4000奪三振まで後18と迫りながら6月24日に解雇される。
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フィラデルフィア・フィリーズ時代(2003年 - 2005年)
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「ジム・トーミ」の記事における「フィラデルフィア・フィリーズ時代(2003年 - 2005年)」の解説
2002年12月6日に6年総額8500万ドルでフィラデルフィア・フィリーズへ移籍 補強の最大の目玉として迎えた2003年はマイク・シュミットの球団記録の48本にあと1本に迫る47本塁打を放ち、自身初の本塁打王のタイトルを獲得し、打点は自己最多の131を記録した。チームはシーズン終盤ワイルドカード争いを繰り広げ、トーミは9月にナ・リーグ月間MVPを受賞。プレーオフ進出はならなかったが、監督のラリー・ボーワはトーミを絶賛した。 2004年はオールスターまでに28本塁打・61打点を記録し、5年ぶりにオールスター選出を果たした。42本塁打を記録し、通算400本塁打を達成した。2005年は右ひじの故障のため59試合出場・打率.207・7本塁打に終わり、6月30日の出場を最後にシーズンを終え、8月には右ひじの手術をした。 トーミの後釜に入ったライアン・ハワードが新人王を受賞する活躍で台頭。
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フィラデルフィア・フィリーズ時代
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「ボブ・アダムズ (1907年生の投手)」の記事における「フィラデルフィア・フィリーズ時代」の解説
1931年、9月27日のボストン・ブレーブス(現アトランタ・ブレーブス)戦で先発登板し、MLBデビューを果たす。この試合では6回を投げて10失点(6自責点)を喫し、敗戦投手となった。この年はA級のリッチモンド・バーズでも33試合に登板し、チーム最多の230.0回を投げた。また、13勝もチーム1位タイの数字だった。 続く1932年はMLBで4試合に登板し、6.0回・防御率1.50という成績を残したが、勝利投手になる機会はなく、この年限りで現役を引退した。
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