初期の指揮
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「ヘンリー・W・スローカム」の記事における「初期の指揮」の解説
南北戦争が勃発すると、スローカムはニューヨーク州エルマイラで招集された2年間連隊である第27ニューヨーク歩兵連隊の大佐に指名された。第一次ブルランの戦いではデイビッド・ハンター少将の師団に属する連隊を率い、その連隊は130名の損失を出し、スローカムも太腿を負傷した。1861年8月、志願兵の准将に昇進し、半島方面作戦では第1軍団から分派されたウィリアム・B・フランクリン少将の第1師団で第2旅団を、七日間の戦いでは第6軍団第1師団を指揮し、ゲインズミルの戦いで頭角を現した。 1862年7月25日、スローカムは志願兵の少将に指名され(7月4日付け)、陸軍でこの階級になった者として2番目に若い記録だった。第二次ブルランの戦いの後に、その第1師団を率いてジョン・ポープ少将の退却を援護した。サウス山の戦いでは、クランプトン峡谷で、その優柔不断な軍団指揮官ウィリアム・B・フランクリン少将を無視し、スローカムとその部下の士官達が石壁の背後にいる敵前線を攻撃し潰走させた。1862年10月20日、アンティータムの戦いで戦死したジョセフ・K・マンスフィールド少将の後を継いで第12軍団の指揮を執った。この戦いではスローカムの師団は予備隊とされていた。スローカムはこの軍団を率いてフレデリックスバーグの戦い(戦場に到着するのが遅れ北軍にとって大惨事となった戦闘には加われなかった)と、チャンセラーズヴィルの戦いに参戦した。チャンセラーズヴィルではその軍団とジョージ・ミードとオリバー・O・ハワード各少将の軍団を含む右翼全軍46,000名を指揮した。スローカムはうまく立ち回ってロバート・E・リー軍の背後に回ったが、ポトマック軍指揮官ジョセフ・フッカー少将から時期尚早とチャンセラーズヴィルで止められてしまった。この戦いの後でスローカムはフッカーを公然と批判し、フッカーを指揮官から排除しようとした将軍達の「徒党」の一人となった。 スローカムは断定的でなく、過剰に慎重で、規則通りの士官として知られた。1863年の夏までに36歳で比較的若い少将だったが、部隊兵に自身を植え込む方法を取得していた。フッカーがポトマック軍指揮官を解任されると、スローカムはその軍隊で上級将軍であり、指揮官に就く候補だった。しかし、スローカムのことは真面目に取り上げられることなく、ミードの下での従軍に同意することになった。
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初期の指揮
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南北戦争勃発から数ヵ月後の1861年8月31日、ミードは大尉から志願兵の准将へ昇進した。これはペンシルベニア州知事アンドリュー・カーティンの強い推薦に基づいていた。戦争初期に徴兵されたペンシルベニア予備役兵連隊の第2旅団指揮官に任官され、当初はワシントンD.C.周辺の防塞化工事で有能さを示した。その旅団は半島方面作戦でジョージ・マクレラン少将のポトマック軍に加わった。七日間の戦いの一つ、グレンデイルの戦いでミードは腕、背中、横腹に重傷を負った。北バージニア方面作戦と第二次ブルランの戦いのときには、完全ではないが快復しており、その旅団を率い、バージニア軍のアービン・マクドウェル軍団に割り当てられた。ミードの旅団はヘンリーハウスヒルで英雄的な陣地死守を行い、撤退する北軍のしんがりを守った。数日後のメリーランド方面作戦の開始時、ポトマック軍第1軍団第3師団の指揮任務を受け、サウス山の戦いで目立った働きをした。ミードの旅団がサウス山の高地を強襲したとき、上官の軍団指揮官ジョセフ・フッカーは、「ミードを見ろ!このような部隊を連れて、このように率いればどんなものにも勝てる!」という叫び声を聞いた。アンティータムの戦いでは、負傷したフッカーに代わって第1軍団の指揮に就いたが、これはマクレラン自らがミードより上級の他の将軍達を差し置いて選定したものだった。この戦いでも活躍したが、太腿に負傷した。 フレデリックスバーグの戦いでは、ミードの師団が戦場の南端でストーンウォール・ジャクソン中将軍団の隙間を衝いて、唯一南軍戦列の突破を果たした。この軍功で、1862年11月29日に遡って、志願兵の少将へ昇進した。しかし、その突破も援軍がなく、師団の大きな損失という結果になった。この戦闘後、第5軍団の指揮を任され、翌春チャンセラーズヴィルの戦いに参戦した。この時ポトマック軍を指揮したフッカー将軍は大きく攻撃的な作戦を描いていたが、実効時にはあまりに臆病になり、南軍が主導権を取ることを許した。ミードの軍団は戦闘の間ほとんど予備隊とされており、北軍の敗北を支えられなかった。この戦闘後、ミードはリー軍に対する攻撃を再開することをフッカーに強く訴えたが、無益だった。
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