初期の指揮とは? わかりやすく解説

初期の指揮

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/03/23 04:37 UTC 版)

ヘンリー・W・スローカム」の記事における「初期の指揮」の解説

南北戦争勃発すると、スローカムはニューヨーク州エルマイラ招集され2年連隊である第27ニューヨーク歩兵連隊大佐指名された。第一次ブルランの戦いではデイビッド・ハンター少将師団属す連隊率い、その連隊130名の損失出し、スローカムも太腿負傷した1861年8月志願兵准将昇進し半島方面作戦では第1軍団から分派されたウィリアム・B・フランクリン少将第1師団第2旅団を、七日間の戦いでは第6軍第1師団指揮しゲインズミルの戦い頭角現した。 1862年7月25日、スローカムは志願兵少将指名され7月4日付け)、陸軍でこの階級になった者として2番目に若い記録だった。第二次ブルランの戦いの後に、その第1師団率いてジョン・ポープ少将退却援護したサウス山の戦いでは、クランプトン峡谷で、その優柔不断な軍団指揮官ウィリアム・B・フランクリン少将無視し、スローカムとその部下士官達が石壁背後にいる敵前線を攻撃し潰走させた。1862年10月20日アンティータムの戦い戦死したジョセフ・K・マンスフィールド少将の後を継いで第12軍団の指揮を執った。この戦いではスローカムの師団予備隊とされていた。スローカムはこの軍団率いてフレデリックスバーグの戦い戦場到着するのが遅れ北軍にとって大惨事となった戦闘には加われなかった)と、チャンセラーズヴィルの戦い参戦したチャンセラーズヴィルではその軍団ジョージ・ミードオリバー・O・ハワード少将軍団を含む右翼全軍46,000名を指揮した。スローカムはうまく立ち回ってロバート・E・リー軍の背後回ったが、ポトマック軍指揮官ジョセフ・フッカー少将から時期尚早チャンセラーズヴィル止められてしまった。この戦いの後でスローカムはフッカー公然と批判しフッカー指揮官から排除しようとした将軍達の「徒党」の一人となった。 スローカムは断定的でなく、過剰に慎重で、規則通り士官として知られた。1863年の夏までに36歳比較的若い少将だったが、部隊兵自身植え込む方法取得していた。フッカーポトマック軍指揮官解任されると、スローカムはその軍隊上級将軍であり、指揮官に就く候補だった。しかし、スローカムのことは真面目に取り上げられることなくミードの下での従軍同意することになった

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初期の指揮

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/12 03:13 UTC 版)

ジョージ・ミード」の記事における「初期の指揮」の解説

南北戦争勃発から数ヵ月後の1861年8月31日ミード大尉から志願兵准将昇進した。これはペンシルベニア州知事アンドリュー・カーティンの強い推薦基づいていた。戦争初期徴兵されペンシルベニア予備役連隊第2旅団指揮官任官され、当初ワシントンD.C.周辺防塞工事有能さ示した。その旅団半島方面作戦ジョージ・マクレラン少将ポトマック軍加わった七日間の戦い一つグレンデイルの戦いミードは腕、背中横腹重傷負った北バージニア方面作戦第二次ブルランの戦いときには、完全ではないが快復しており、その旅団率いバージニア軍アービン・マクドウェル軍団割り当てられた。ミード旅団はヘンリーハウスヒルで英雄的な陣地死守行い撤退する北軍しんがり守った数日後メリーランド方面作戦開始時、ポトマック軍第1軍団第3師団指揮任務を受け、サウス山の戦い目立った働きをした。ミード旅団サウス山の高地強襲したとき、上官軍団指揮官ジョセフ・フッカーは、「ミード見ろこのような部隊連れてこのように率いればどんなものにも勝てる!」という叫び声聞いたアンティータムの戦いでは、負傷したフッカーに代わって第1軍団指揮就いたが、これはマクレラン自らがミードより上級の他の将軍達差し置いて選定したのだった。この戦いで活躍したが、太腿負傷したフレデリックスバーグの戦いでは、ミード師団戦場南端ストーンウォール・ジャクソン中将軍団隙間を衝いて、唯一南軍戦列突破果たした。この軍功で、1862年11月29日遡って志願兵少将昇進した。しかし、その突破援軍がなく、師団大きな損失という結果になった。この戦闘後第5軍団指揮任され翌春チャンセラーズヴィルの戦い参戦した。この時ポトマック軍指揮したフッカー将軍大きく攻撃的な作戦描いていたが、実効時にはあまりに臆病になり、南軍主導権を取ることを許したミード軍団戦闘の間ほとんど予備隊とされており、北軍敗北支えられなかった。この戦闘後ミードリー軍に対す攻撃再開することをフッカー強く訴えたが、無益だった。

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