初期の技術者としてのキャリア
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/06 14:27 UTC 版)
「ドナルド・ウィルズ・ダグラス・シニア」の記事における「初期の技術者としてのキャリア」の解説
1915年にダグラスはシコルスキー社に入社し、海軍初の飛行船であるDN-1の設計に参加した。1915年8月にダグラスはグレンマーチン社に入社し、23歳の時にチーフエンジニアとしてマーチンS(英語版)水上機を設計した。グレン・マーチン社がライト社と合併してライト・マーチン社(英語版)となった直後、ダグラスは1916年11月に辞職し、アメリカ陸軍通信隊(英語版)航空部門の民間航空技師長に就任した。その後まもなく、ダグラスはオハイオ州クリーブランドにあった、新たに設立されたグレン・L・マーチン社に戻り、再びマーチン社の主任技術者となった。ダグラスはそこでマーチンMB-1(英語版)爆撃機を設計した。 1920年3月にダグラスは年収1万ドル(2019年の12万8000ドルに相当)あった仕事を辞めてカリフォルニアに戻り、1916年にシャーロット・マルグリット・オーグと出会って結婚した。2人の間で長男のドナルド・ウィルズ・ダグラス・ジュニアら4人の息子と娘1人が誕生した。 彼は間も無くパートナーのデイビッド・デイビスから4万ドルの融資を受けて、自身にとって最初の航空機会社であるデイビス・ダグラス・カンパニーを設立した。彼らは共同で、アメリカ東海岸から西海岸までノンストップで飛行できる航空機であるダグラス・クラウドスターの開発を試みた。この試みは成功せず、デイビスはパートナーシップから離れてダグラスのダグラス・エアクラフトを新たに設立した。
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