初期の探索
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 15:56 UTC 版)
19世紀初頭、ロシア帝国は、シベリアの北極海沖合でアジアとヨーロッパの最短航路になりうる「北東航路」を探すと同時に、自国周辺の島々を他国に発見・領有されることを恐れ、未発見の島々を自国領に編入すべく、盛んに探検隊を派遣していた。そうした探検隊のメンバーであったヤコフ・サンニコフ と マトヴェイ・ゲデンシュトロムは、彼らの1809年から1810年のノヴォシビルスク諸島の地図作成のための探検の途中で、この島を目撃したと主張した。サンニコフはこのコテリヌイ島の北方の「新島」を1811年に最初に報告した人物であった (このため「サンニコフ島」と呼ばれる)。サンニコフは過去に新島発見の実績を持っており、実直な人格者でもあったため、その報告は広く信用された。 1886年、ロシア軍のバルト・ドイツ人探検家であるエドゥアルト・フォン・トル(Eduard Von Toll) は、ノヴォシビルスク諸島への探検の途中で、ぼんやりとした陸影を観測したことを報告した。 1901年、フォン・トルにより実施された別の探検である「ロシア極地探検」 (The Russian Polar Expedition) において、ロシアの北極観測船(砕氷船)ザーリャ(英語版)は、伝説のサンニコフ島を探して、ラプテフ海を横切る進路を取ていたが、間もなくノヴォシビルスク諸島の流氷に阻まれてしまった。1902年、ザーリャが定着氷に捕まっているにもかかわらず、探検隊はデロング諸島の向こうにあると考えられたサンニコフ島の探索を続けようとした。6月5日、本隊を船に残して、フォン・トルと3人の同僚は海氷上をサンニコフ島の探索に出発した。8月初めに、ベネット島に到着し、しばらく滞在した後、10月26日、ベネット島を出発してノバヤ・シビリ島(英語版)を目指して緩い氷盤 (ice floe) の上を南に向かった。10月26日までの行動はベネット島に残された手記で判明しているが、それ以降の彼らの消息の一切は不明である。
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