個々の事情への考慮の問題
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/05 05:28 UTC 版)
「賞罰的県名説」の記事における「個々の事情への考慮の問題」の解説
『府藩県制史』の説は、県の廃置分合の過程に関わる個々の事情への考慮が薄いという指摘もある。 例えば岩手県の場合、財政困難から願いによって旧・盛岡(白石)藩が1870年(明治3年)に廃藩置県に先立って盛岡県とされ、1871年(明治4年)7月の廃藩置県の際は「盛岡県」であった。翌1872年2月16日(明治5年1月8日)に太政官により「其県岩手県ト改称相成候事」と盛岡県に向けて改称の通知がなされ、「盛岡県」は消滅し岩手県となるが、改称の体裁として太政官の布告に先んじて「当盛岡県ノ名、元盛岡藩因襲ノ呼称ニテ(中略)兎角藩治ノ風習脱却仕兼候間、今般新県御改立ノ折柄、旧名ヲ改メ、岩手県ト相唱申度」と、盛岡県の側から申請した形式をとっている。この際、旧来の小藩なども組み替え、従来の領域を改めて置県したため、旧藩の呼称を用いては何かと差し障りがあった可能性がある。仙台県から宮城県への改称も、これに類似する県側からの改名歎願に基づくものである(仙台県#歴史参照)。 あるいは、石川県が金沢県から改称した直接の理由は、金沢から美川(現白山市)へ県庁を移転したことである。県庁移転の公式理由は県域の北に寄りすぎていることであったが、背景には旧加賀藩の影響力を弱める目的もあったという説もあり(石川県#近代参照)、翌年に県庁を金沢へ戻したときに県名を戻さなかった理由も明白でない。いずれにしても、「朝敵藩」かどうかという単純な判断基準で決められたと結論するには事情が複雑すぎる。安濃津県から三重県への改称にも、これに類似する経緯がある(三重県#近代・現代参照)。 他にも「郡名」を起源とする県名が県庁の移転に関連していると考えられる事例がある。例えば一関県が水沢に県庁を移転する想定で水沢県に改称したものの結局一関へ戻ることになった際に、元の県名ではなく郡名起源の磐井県になっている(磐井県#沿革参照)。あるいは彦根に仮庁舎を置いていた長浜県が、一旦長浜に庁舎を移したあと結局彦根へ戻すことになった際に、郡名起源の犬上県になっている(犬上県#沿革参照)。このような事例が、県庁誘致に伴う地域対立を緩和することが主目的であった可能性は否定できない。 ちなみに、西日本に手厚く臨んだ結果として、九州の県は全て「都市名」を県名としていることが指摘されることがあるが、実は大分と宮崎は県設置以後に郡名起源の県名に都市名を合わせたものであるので(大分市#近代および宮崎市#近代参照)、宮武説に従えば「朝敵藩」ないし「曖昧藩」とみなされたことになってしまい、説明をつけることが難しい。また、熊本県は「雅称」の白川県に改称したのを戻したもので(熊本県の歴史#廃藩置県参照)、一旦廃止されて復活した県以外で唯一「都市名」に戻った事例であり、これをどう評価するかは自明でない。
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