任天堂入社とは? わかりやすく解説

任天堂入社

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 13:29 UTC 版)

宮本茂」の記事における「任天堂入社」の解説

1977年金沢美術工芸大学卒業後、任天堂入社マスプロ製品デザインする仕事に就きたいという考え加えユニークな商品数多く発売している社風興味抱いたことが志望動機であった当時任天堂デザイナー募集行っていなかったが、宮本の父が任天堂社長山内溥友人だった事もあり、特例面接機会を得る事が出来た当初山内乗り気ではなかったものの、宮本自作ハンガーなどを持ち込んで積極的なプレゼン行った事で山内の「ものづくりができる社員欲しい」という眼鏡叶い人事との調整後に入社決まった。なお、宮本は、ユニークな商品事業的に失敗していることを入社後知り唖然としたという。 入社直後企画部配属されかるたの版下デザイン麻雀ラベル作成など小さな仕事こなしていたが、1979年からアーケードゲームシェリフ』『スペースファイアバード』などの筐体デザイン家庭用ゲーム機ブロック崩し』などの本体デザイン手掛けるうになる1979年稼動開始したアーケードゲーム『スペースフィーバー』では筐体デザインだけでなくキャラクターデザイン担当した入社3年目1980年に、Nintendo of America任天堂アメリカ現地法人)でアーケードゲーム基板在庫大量に抱える問題発生したことを受け、同基板活用して新しゲーム作るための会議が任天堂本社行われたこの中で開発部門部長務め横井軍平が、それまでソフトウェア開発携わっていなかった宮本抜擢し宮本中心としたゲーム制作が行われることになった開発当初アメリカン・コミックの『ポパイ』を題材とする予定だったが、版権問題により頓挫その後宮本キャラクター描き直した上でプログラミング以外の作業をほぼ1人担当1981年に『ドンキーコング』を完成させ、これが世界的なヒット記録したまた、この作品は後に任天堂看板キャラクターとなる「マリオ」のデビュー作になった。 これ以降宮本はしばし横井と共にゲーム開発を行うことになる。横井からさまざまな考え方作り方学んでおり、宮本自身も「横井自分の師匠だ思っている」と語っている。横井開発理念は、その後宮本にも受け継がれている。 その後山内の「100人の凡才より1人天才」という考えから、任天堂ゲーム中心的開発者となり、1983年新設され情報開発部開発課長就任部門実務リーダーになった1996年情報開発部情報開発本部格上げされ宮本情報開発本部情報開発部長に就任1998年情報開発本部長に就任2000年6月取締役就任岩田聡新社長の体制発足同時に2002年5月31日代表取締役専務就任その後2015年9月16日付で、権限委譲などによる後継者育成のため、君島達己新社就任などの人事合わせ情報開発本部長を退任してクリエイティブフェローに就任後任ソフトウェア開発部門トップは、高橋伸也取締役企画制作本部長。 役員経営業務優先されるため、開発業務長年連れ添ってきた部下任せ自分開発現場からある程度離れた立場に退く形になった代表取締役専務昇格してからは、それが更に顕著となり、日本国内外の支社取引会社何度も往復したり、2週間一度取締役会仕事拘束されることとなる。しかし、代表取締役社長当時)の岩田聡による「宮本さんは、可能な限り開発現場にいるべきだ」との方針により、2006年発売『ゼルダの伝説 トワイライトプリンセス』開発以降情報開発本部長としてできるだけ開発業務に携われるよう体制改められた。なお、宮本自身は、取締役活動も「全体捉えて単純化したものの見方ができるようになった」として、開発者視点において無駄とはなっていないと語っている。 2019年には文化功労者選定された。宮本はこの受賞に対してゲームというジャンル光を当ててもらえるのは光栄なことです」と述べたほか、「ゲーム大勢作りいろんなチームとも仕事をするので、個人で頂くというのがとてもてれ臭いです」と語っている。

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任天堂入社

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/06 15:35 UTC 版)

横井軍平」の記事における「任天堂入社」の解説

1965年同志社大学工学部電気工学科卒業後、大手家電メーカーへの就職希望していたが、成績不良によりいずれも就職試験落ち近所にあってなおかつ採用してくれたという理由任天堂入社する当時任天堂京都花札・トランプメーカーにすぎず、横井工学部卒の入社第一号だったと言われている。 入社当初電気主任技術者として電気設備機器保守点検仕事任されていたが、暇つぶし格子状伸び縮みするおもちゃ作り遊んでいたところを社長山内溥に見つかり、社長室呼び出される処罰を受けることを覚悟したが、山内言葉は「それをゲーム化して商品化しろ」であり、物を掴めるように改良加えてウルトラハンド』として商品化ウルトラハンドコピー品出回るほどの大人気商品となる。 同作ヒットきっかけに「開発課」が設置され任天堂玩具開発担当することになる。当初開発課は横井経理担当今西紘史二人だけだったが、作品数増加するにつれ人員増加していった。

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