中立の変遷
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/13 21:05 UTC 版)
国際法上の中立は、国家主権の絶対性が信じられた時代のヨーロッパ国家体系の産物である。それ以前、即ち他国がすべて潜在的な敵であった古代にも、キリスト教倫理が国家判断より重視された中世にも、中立の概念は発達しなかった。ただ、中世末期には地中海商人層の間に一種の海法(コンソラート・デル・マーレ)が生まれ、その中で中立商業についても規定がなされている。16世紀以降、世界貿易の発達につれて中立の概念もしだいに明確化された。特に18世紀末から19世紀にかけて、例えば1793年にアメリカが中立宣言を発し中立の権利・義務を明示したこと、ロシア帝国(旧)が2度にわたり北方諸国を結集して武装中立を宣言したこと、ナポレオン戦争の際に英仏両国が相互に封鎖を宣言して第三国の通商を害したことなどが、中立の理念の発達に刺激を与えた(イギリスの海上封鎖、フランスの大陸封鎖令)。日本も明治維新後に発生した普仏戦争・露土戦争などにおいて中立を宣言している。 日本関連では、1868年に江戸幕府と明治政府の間で行われた戊辰戦争に際して欧米列強が「局外中立」したのが著名である。戊辰戦争が始まると、従来外交権を保持していた江戸幕府は各国政府に対して中立を求める交渉を行い、明治政府もこれに対抗して各国政府に中立を求めた。これを受けて、イギリス・フランス・アメリカ・プロイセン・オランダ・イタリアの6か国は1868年2月18日(天保暦:明治元年1月25日)、兵庫においてこの戦争に対する「局外中立」を宣言した。これによって戊辰戦争に対する列強の干渉が回避された反面、江戸幕府・明治政府共に兵器や軍用品の輸入調達に大きな支障を来たすことになった。更に実際には、親江戸幕府のフランスと親明治政府のイギリス、更に中立厳守を求めるアメリカの間で歩調が揃わなかった。このため、同年5月3日(天保暦:明治元年4月11日)に江戸開城が行われたことを受けた明治政府は江戸幕府が政権の実体を喪失したとして「局外中立」の解除を求めたものの、明治政府の外交権が各国に認められた以降も解除に関する各国の合意が得られず、中立が解除されたのは奥羽越列藩同盟が解体して明治政府の勝利で大勢が決した1869年2月9日(天保暦:明治元年12月28日)のことであった。 永世中立については、1815年のウィーン会議がスイスのそれを定めたほか、19世紀内にベルギー(1893年)、ルクセンブルク(1867年)の中立を規定した国際条約が締結された。 戦時中立に関する国際的規定はクリミア戦争後の1856年のパリ宣言、1907年のハーグ平和会議、1909年のロンドン宣言等により完成された。 しかし20世紀初頭を過ぎると、国際社会の統合と国家主権の相対化が進み、中立の維持は急速に困難になった。第一次世界大戦ではドイツ帝国が永世中立国ベルギーに侵攻するなど、中立を尊重しない動きも生まれた。 「第一次世界大戦の参戦国#中立国」も参照 戦後には国際連盟が結成され、戦争に訴えない義務、違反国に対する制裁に参加する義務が加盟国に課せられるとともに、加盟国の立場と中立の地位が矛盾する可能性が生まれた。 第二次世界大戦に際しては、ナチス・ドイツが中立国オランダ・ルクセンブルク・ノルウェー・ベルギー・デンマークを攻撃するなど、中立は以前よりもさらに無視されやすくなった。また、連合国側でもイギリス・ソ連が中立国であったイラン(パフラヴィー朝)に侵攻し、連合国への参加を強制した上で占領地に傀儡政権を樹立する事態が発生している。1945年8月にソビエト連邦による日ソ中立条約の破棄も中立侵害の典型である(中立条約参照のこと)。また中立国であってもスペイン・ポルトガル・スイス・スウェーデンが交戦国に便宜を図る中立義務違反を犯していたことも明らかになっている。 「第二次世界大戦の参戦国#主な中立国」も参照
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