一燈園後
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この頃、南禅寺の豊田毒潭、河野霧海、建仁寺の竹田黙雷に参禅し、下座行を知る。またトルストイ著の『わが宗教』に書いてある「生きようと思わば死ね」の言葉に感動。明治38年(1905年)4月26日、長浜八幡神社境内の愛染堂にて三日三晩の断食坐禅のあと、29日に赤児の泣声を聞き愛染堂で大悟する。そして天香は、無所有・下座・奉仕の新生涯に入る。 明治39年(1906年)天香は山科観修寺に家屋を預り、観修寺の天華香洞と称した。「天華香洞」とは常住路頭の天香さんからその「道」を聴こうと人々の集まる寄り合いの場所ともいえるもので、まだ鹿ケ谷の一燈園の建物もなく有縁の人達の家に集まったり、寺院に集まったり、天香さんを中心に人々の集まる場所を称したのである。また天香は「天華香洞」に因み「天香」と号す。そこに居住して托鉢の拠点とする。翌明治40年(1907年)になると綱島梁川が、西田天香の生活を論評、天香の名前が知識人の間で知られるようになる。 大正2年(1913年)、前妻のぶと離婚し、奥田かつ(西田照月)と結婚。京都鹿ヶ谷桜谷町に「一燈園」を支援者の喜捨により開設。思想家・綱島梁川の『一燈録』から命名した。そして一燈園には、和辻哲郎・徳富蘆花・安部能成・谷口雅春・倉田百三らも参座するようになる。 大正6年(1917年)、同園での体験を元にした倉田百三の『出家とその弟子』がベストセラーとなり、そして「親鸞のモデルは西田天香さんである」と語り、西田天香の名前が知られるようになった。 大正8年(1919年)、機関誌『光』の刊行を始め、「六万行願」を創設する。 大正10年(1921年)、自身の宗教的転回についてまとめた『懺悔の生活』(春秋社)がベストセラーとなる。 大正11年(1922年)、親類より引き継いだ田乃沢鉱山の経営資金問題が新聞沙汰となる。 大正12年(1923年)、11月、尾崎放哉が妻の馨と別れて京都鹿ヶ谷の一燈園に入るが、翌大正13年3月には一燈園を出て、浄土宗大本山知恩院の塔頭常称院の寺男となった。またこの年、京都烏丸頭に「燈影小塾」を開塾、婦女子の教育と宣光社活動(出版等)の拠点となる。 大正15年(1926年)、1年間アメリカを巡錫。 昭和2年(1927年)、満州に燈影荘を開荘。 昭和3年(1928年)、元八幡町長・西川庄六の喜捨により、山科一燈園(現、財団法人懺悔奉仕光泉林)を設立。 昭和5年(1930年)、光泉林内に「愛禅無怨堂」が献堂される。 昭和6年(1931年)、すわらじ劇園を始める。 昭和8年(1933年)、一燈園尋常小学校認可。「礼堂」献堂。 昭和13年(1938年)、滋賀県全域の六万行願。中国へ渡る。 昭和19年(1944年)、日本毛織加古川工場へ、産業報告托鉢に出かける。 昭和22年(1947年)、支援者の依頼で第1回参議院議員通常選挙に無所属で立候補し、当選。参議院議員となり、その後緑風会に参加。返上できなかった議員歳費を貯蓄し、そのまま国連協会・ユニセフに寄付した。 昭和28年(1953年)、参議院議員選挙に立候補するも落選。 昭和29年(1954年)、孫の多戈止(武)を後継当番に指名する。 昭和30年(1955年)、妻の西田照月さん帰光。 昭和32年(1957年)、北村西望作の天香さん夫妻の帰路頭姿の銅像が、建立される。 昭和42年(1967年)、長浜市の名誉市民第1号に推される 昭和43年(1968年)、帰光(死去)
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