一燈園後とは? わかりやすく解説

一燈園後

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/09 01:27 UTC 版)

西田天香」の記事における「一燈園後」の解説

この頃南禅寺豊田毒潭、河野霧海建仁寺竹田黙雷参禅し、下座行を知る。またトルストイ著の『わが宗教』に書いてある「生きようと思わば死ね」の言葉感動明治38年1905年4月26日長浜八幡神社境内愛染堂にて三日三晩断食坐禅のあと、29日赤児泣声聞き愛染堂大悟する。そして天香は、無所有下座奉仕新生涯に入る。 明治39年1906年天香山科観修寺に家屋預り、観修寺の天華香洞と称した。「天華香洞」とは常住路頭天香さんからその「道」聴こう人々の集まる寄り合いの場所ともいえるもので、まだ鹿ケ谷一燈園建物もなく有縁の人達の家に集まったり、寺院集まったり、天香さんを中心に人々の集まる場所を称したのである。また天香は「天華香洞」に因み天香」と号す。そこに居住して托鉢拠点とする。翌明治40年1907年)になると綱島梁川が、西田天香の生活を論評天香の名前が知識人の間で知られるうになる大正2年1913年)、前妻のぶと離婚し奥田かつ(西田照月)と結婚京都鹿ヶ谷桜谷町に「一燈園」を支援者喜捨により開設思想家綱島梁川の『一燈録』から命名した。そして一燈園には、和辻哲郎徳富蘆花安部成・谷雅春倉田百三らも参座するようになる大正6年1917年)、同園での体験元にした倉田百三の『出家とその弟子』がベストセラーとなり、そして「親鸞モデル西田天香さんである」と語り西田天香の名前が知られるようになった大正8年1919年)、機関誌『光』の刊行始め、「六万行願」を創設する大正10年1921年)、自身宗教的転回についてまとめた『懺悔の生活』(春秋社)がベストセラーとなる。 大正11年1922年)、親類より引き継いだ田乃沢鉱山経営資金問題新聞沙汰となる。 大正12年1923年)、11月尾崎放哉が妻の馨と別れて京都鹿ヶ谷一燈園に入るが、翌大正13年3月には一燈園出て浄土宗大本山知恩院塔頭常称院の寺男となった。またこの年京都烏丸頭に「燈影小塾」を開塾、婦女子教育宣光活動出版等)の拠点となる。 大正15年1926年)、1年間アメリカ巡錫昭和2年1927年)、満州燈影荘を開荘。 昭和3年1928年)、元八幡町長・西川庄六の喜捨により、山科一燈園(現、財団法人懺悔奉仕光泉)を設立昭和5年1930年)、光泉林内に「愛禅無怨堂」が献堂される。 昭和6年1931年)、すわらじ劇園始める。 昭和8年1933年)、一燈園尋常小学校認可。「礼堂献堂昭和13年1938年)、滋賀県全域六万行願中国へ渡る。 昭和19年1944年)、日本毛織加古川工場へ、産業報告托鉢出かける昭和22年1947年)、支援者依頼第1回参議院議員通常選挙無所属立候補し当選参議院議員となり、その後緑風会参加返上できなかった議員歳費貯蓄しそのまま国連協会ユニセフ寄付した昭和28年1953年)、参議院議員選挙立候補する落選昭和29年1954年)、孫の多戈止(武)を後継当番指名する昭和30年1955年)、妻の西田照月さん帰光。 昭和32年1957年)、北村西望作の天香さん夫妻帰路頭姿の銅像が、建立される。 昭和42年1967年)、長浜市名誉市民第1号推され昭和43年1968年)、帰光(死去

※この「一燈園後」の解説は、「西田天香」の解説の一部です。
「一燈園後」を含む「西田天香」の記事については、「西田天香」の概要を参照ください。

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