レコンストラクションとジム・クロウ法
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「テネシー州の歴史」の記事における「レコンストラクションとジム・クロウ法」の解説
南北戦争後の1865年2月22日、テネシー州は個人資産を差し止める憲法修正条項を採択し、1866年7月18日にアメリカ合衆国憲法修正第14条を批准した。1866年7月24日にはアメリカ合衆国への復帰を認められることでは最初の州となった。 テネシー州は修正第14条を批准したので、レコンストラクション中も軍政府が置かれなかった唯一の脱退州となった。 南部の大半の州と同様に、テネシー州の白人は南北戦争の結果を受け入れなかった。大規模な権力の転換という環境に対しての反発が必ず起こり、どの集団も進んで権力を諦めようとはしなかった。多くの白人は、自由で完全な市民権と選挙権の行使を認めることについてその考え方を変えなかった。かれらは黒人から教育の機会を奪い、アフリカ系アメリカ人は学ぶことが出来ないと信じるようになった。東テネシーで黒人と職を奪い合うという怖れから、中部と西テネシーで農園主が十分な労働力を確保できなくなるという心配まで、緊張関係があった。彼らはしばしば、アフリカ系アメリカ人は強制しなくても働くとは思わなかった。 1868年1月4日、「ナッシュビル・リパブリカン・バナー」紙が、共和党による一党支配を打破し、地域の黒人に対する人種差別を再開しようとする南部白人の革命的運動を要求する論説を掲載した。この論説では「この州では、レコンストラクションが完了し、その最悪のものを成し遂げた。見出される限りの完全に閉じた団体である政府を組織化した。支配の代理人と原動力として白人の上に黒人を据えた。全ての自由な保証、特権および機会が人民から奪われる機械システムを作り上げた。革命的運動以外ではテネシー州で自由な票を投じることが出来ないというのは...疑いもない事実である」としていた。 事実、レコンストラクション中のテネシー州議会には2,3人のアフリカ系アメリカ人がいた。他に州および市の役人になった者がいた。アフリカ系アメリカ人は、ナッシュビル市議会での参加者が増えたと言っても、議席の3分の1を持っているだけだった。 かくして白人はレコンストラクション中も明らかに州の支配を続けた。アンドリュー・ジョンソンは1872年のアメリカ合衆国議会選挙で、西部郡の対話集会においてアフリカ系アメリカ人に話をもっていき、「もし性格と教育によって適していると資格付けされるならば、誰もあたた方の投票を否定すべきではない。」と言った。もし解放奴隷が概して「教育によって適合」するならば、貧乏な多くの白人よりも適合したことであろう。貧乏白人は教育的要求事項を満たせなかったし、後には参政権も剥奪された。 1870年代、白人特権階級は政治的権力を取り戻すために動き、武装集団を使って解放奴隷やその仲間に脅しをかけ、投票を妨害し、労働者を支配した。白人民主党が権力を回復した。 1889年、テネシー州議会は自称選挙人改革4法案を通し、アフリカ系アメリカ人ならびに貧乏白人有権者の大部分から参政権を剥奪することになった。この立法の機会は民主党が掴んだ特徴ある機会から生まれ、ある歴史家が「南部における一貫して競争力ある政治システムと表現したものをもたらした。 1888年の政治運動で、民主党は議会の両院で定足数を支配するために汚職と暴力における比類のない戦いを行った。共和党が反党的手段を止めることも打ち破ることもできないままで、参政権剥奪法案が1889年に議会を通り、ロバート・L・テイラー知事は法案に署名して立法化した。黒人投票の終結と新聞編集者に囃され、この法律は予想通り機能し、アフリカ系アメリカ人の投票はテネシー州の田舎と小さな町で急激に減少した。都会にいる多くの黒人は、20世紀初期にその政治的な力を取り除いたいわゆる進歩的改革のときまで投票を続けた。 — 白人の特権階級が支配する議会はジム・クロウ法を付け加えるまでに権力を得て、20世紀中頃まで続くことになる州の人種差別政策を作り上げた。参政権剥奪条項は黒人だけでなく貧乏な白人にも数十年間及んだ。テネシー州は白人が支配する州となり、中部および西部は民主党が権力を持った。東部は南北戦争前および戦中の統一維持派的傾向に基づいて共和党支持を続けた。
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